鉄道

2024年3月24日 (日)

『鉄道ひとつばなし』を読む

著者は政治学者。

初めに、
 学者が本業を放り出して、「趣味」の本を出すとは何事
 かという批判は覚悟している。
と書き、続けて、
 私にとって、鉄道は単なる趣味ではない。 それは経済
 史や経営史の研究対象となるばかりでなく、私の専門で
 ある政治思想史にとっても、テキストを読むだけでは見
 えない重要な手掛かりを与えてくれる。
と書く。

そして序章が、
 思索の源泉としての鉄道

鉄チャン・鉄子の好むトリビアが並べられているのではなく、広く深い知識と、整然とした頭の使い方で本書は書かれている。

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こんな喫茶店で読み始め。

大正天皇は その皇太子時代(1900(明治33)年~1912(大正元)年)に、沖縄を除く全ての道府県庁所在地を回っている。
1907(明治40)年、皇太子は 開通20日後の山陰本線に乗っている。
その時の、鳥取県の倉吉駅のある自治協会に残る記録が以下。

 奉迎人 倉吉駅到着は遅くも御着車時刻一時間前
 (九時五十分)とす もし同時刻を後れば構内
 に入ることを得ず

つまり、
 皇太子を乗せた列車は十時五十分に倉吉駅に着くから、
 歓迎に選ばれたものは、その一時間前の九時五十分まで
 に駅構内の指定場所に整列せよ。
 それに遅れた者は駅構内に立ち入ることを禁ずる。

数字をきれいに、九時五十分としても良さそうなものだが、一時間前は、あくまでもキッカリ一時間前。
時刻の五十分は、あくまでも五十分。

鉄道と皇族の硬い関係が見える。

本夕、読了。

ところで、本書初版は2003年9月だが、今も版を重ねている。
なお、執筆時、某大学助教授だった著者は、すでに名誉教授。

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2022年10月29日 (土)

『日本の名列車』を読む

日本の新幹線網の総延長距離は、3千キロ。
中国の高速鉄道網(日本の新幹線に相当)の総延長距離は、3万キロ。
中国の人口は日本の10倍。
だから、日本の10倍の距離は、人口比に見合っているが、さらに万の単位で延線される計画。
日本の25倍ある中国の国土面積の大きさゆえ。

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こんな飯屋で読み始め。

ところで、日本の新幹線になくて、中国のそれにあるのは寝台車。

今、国内で定期運航する寝台列車は、
 サンライズ出雲
 サンライズ瀬戸
のみ。
本書では、今はなき、あるいは今も走る特急・急行、寝台列車が語られる。

著者は、鉄道ジャーナル社を創業、そこを経営しつつ、月刊『鉄道ジャーナル』・『旅と鉄道』の編集長を務め、2015年に死去した竹島紀元。
彼の文章を背中や脇腹にこそばゆさを感じずに読み通せるヒトは、その列車に乗った経験のあるヒトだろう。
例えば、こんな文章・・・
 旅人たちは 軽い鉄輪(わだち)の響きに身を任せて思い思いに
 かりそめの夢路を辿る。
 鉄路に星影が散る夜半(よわ)・・・、ブルートレイン<日本海>
 は暗い山河に一筋の光芒を淡く放って遥かなる北への旅路を駆け
   続ける。

本夕、読了。

国縫から瀬棚までの50キロを結んでいた瀬棚線の廃線は、1987年、国鉄がJRに移行する2週間前。
その代替として、函館バスが長万部・瀬棚間を運行している。
定期営業バスは、運輸局が許可した停留所以外では乗降できないのが決まり。
が、長万部・瀬棚間の途中の閑散部ではフリー乗降制が承認されている。
停留所以外でも、手を上げればバスは止まってくれる。

その鉄道版が、米国アラスカ鉄道。
線路脇で白い旗を振れば、列車が止まってくれる。
サントリーオールドの古いTV-CMで、その様子を見ることができる。
このCMでは、開高健が白い旗ではなく星条旗と日章旗を振って列車を止めている

私は、乗車時にどうしたことか左足の靴を車両とホームの隙間に落とし、列車の出発を止めたことがある(^^;

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2019年6月 1日 (土)

本日、外飯日和

北海道には屋外で飯を食うことを目玉とする大きなイベントがいくつもあって、回を重ねている順から、
  豊浦いちご豚肉まつり
  池田町ワインまつり
  美幌観光和牛まつり
  白老牛肉まつり
  三石蓬莱山まつり
   ・・・
   ・・・
 絵鞆マリン倶楽部 安全祈願祭・釣り大会のパワーランチ

規模だと、『白老牛肉まつり』が一番だと思う。
ここで昼飯を食べるのが、我が家の年中行事のひとつ。
ということで、今日の昼飯は『白老牛肉まつり』会場で。

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すでに限界点を越えた過飽和状態のイベントになり、よそ者ながら、運営を考えないと、と感じていた『白老牛肉まつり』。
それが、いい感じに収束、落ち着いた。

本日、外飯日和(そとめしびより)。
満腹(^o^)

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行きは特急すずらん5号。
789系電車に鷲別駅から乗車。
乗車時間23分間で白老駅着。

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帰りは、普通列車。
キハ40気動車の単行列車。
優駿浪漫(日高)塗装車。
乗車時間は51分。

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2019年5月 4日 (土)

久大本線に乗る

久留米と大分を結ぶので、久大本線。
〝久大〟と書いて、〝きゅうだい〟と読む。

この久大本線の前後にちょっと足し加えて、
 博多-久留米-大分-別府
と走る特急が〝ゆふいんの森〟。

博多駅で 下り〝ゆふいんの森〟に乗り、由布院駅で降車。(注)
11
こんなアテンダーに見送られる。

由布院駅から大分駅までは2両編成の普通列車で。
 由布院駅
 南由布駅
 湯平駅
 庄内駅
ときて、
Tenjinnmachi
天神山(てんじんやま)駅。

大分まであと8駅、残り20キロ強ある。
乗っているのは、ワンマンカー。
降車口は前方ひとつ。

降車口に向かったのは私だけ。
私が、ここで降りたのは、天神山駅が無人の花の駅だから(^o^)

(注)

行政区は布市布院町にあるが、〝布院〟駅。

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2017年12月29日 (金)

札幌市電に乗る

所用で札幌。
で、札幌市電に乗車。

札幌市電は、一昨年の12月、〝西4丁目〟と〝すすきの〟が接続、ループ化が完了。
かつ、両停留場間に〝狸小路〟が追設された。

〝西4丁目狸小路〟〝すすきの〟と進む右回りが外回り。
〝西4丁目〟〝狸小路〟〝すすきの〟と進む左回りが内回り。

20171229_3【画像:上】
ということで、西4丁目。
停車中の外回り線に乗車。

【画像:下】
子供と同じ、最前席に座る(^o^)

【GPSログ】
〝西4丁目〟で乗車、〝西4丁目〟で降車、ぐるり一周。

本日、札幌市電完乗(^o^)
8.9キロ、52分。

Gpslog_2

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2016年7月 3日 (日)

北舟岡駅にて

西からの強風。

160703【画像:上】
北舟岡駅2番ホームにて。
長万部発の単行列車が画像手前から入線。

画像右1番ホーム。
すぐ向こう噴火湾。

この時期、日が沈む頃に東室蘭(画像奥側)からの単行列車が1番ホームに入線する。
その時刻、ここから乗る人は滅多にいない。
せいぜい3、4人だが、降りる人ばかり。

夕日が差し、海が見えて単行列車。
となれば、どうしてもここで女子高生の乗車のシーンがほしいもの。
そのショットを得るために、自分の娘さんをここから乗車させた写真家を知っている(^o^)

釣師の興味は、この沖がカレイ・ヒラメ、秋はサケの好釣海域だということ。

今日は大シケ(^^;

【画像:下】
この右、70メートルで北舟岡駅。

茨城からの19歳。
持て余すほどの時間を持つ若者。
今日、どこまで走るのかは脚次第。
帰宅日も分らない。
GIANTのグレートジャーニーで北海道を走ること2ヶ月が過ぎたと(^o^)

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2016年5月28日 (土)

倶知安駅にて

所用で倶知安。

私の立っているのは、倶知安駅の〝駅ウラ〟。

160528_2【画像:上】
ここには、'86(昭和61)年まで機関区があった。
今、機関区跡地には、公園、立派な体育館、パークゴルフ場が整備されている。

機関区があったことをしのばせる遺構はこれだけ。
電動転車台。
転車中心を示す架構の向こうに羊蹄山。

背中はニセコ連山。
イワオヌプリ・ニセコアンヌプリ。

キハ40の2両編成が長万部に向かって動き出した。

【画像:下】
駅ウラ、少し北。
菜の花畑。

羊蹄山の雪のすそが、1000メートルあたりまで上がってきた。
私の装備力で あの山頂まで上がれるのも、もうそろそろだ(^o^)

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2016年2月14日 (日)

札幌駅にて

2月4日の記事 『文学の中の鉄道』を読む で、〝鉄道は大量のヒト・モノの移動を目的とする機関なので、鉄路が結ぶ各点はヒトの活動地。〟と書いた。

〝ヒトの活動地と活動地を鉄路で結ぶ〟という時間順は自然の流れなのでそう書いたが、そうではなく、〝活動地とするために鉄路を敷く〟という人為的な歴史の流れもあった。

例えば、軍事拠点地に向かう鉄路。
また、大住宅地造成に伴う鉄路の敷設。
東急の歴史がそれ。

160214_2本日、所用あって札幌。

北海道の鉄道のスタートは、小樽市内の南小樽-手宮。
札幌と小樽を結ぶのは、そのあと。
道庁所在地としての札幌のスタート自体が計画都市。

ということとは全然関係なく、この冬、札幌は雪が少なく歩きやすい。
駅から半径1キロ以内の3ヶ所へ、全て徒歩で所用完遂(^o^)

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2015年7月25日 (土)

比羅夫駅にて

倶知安駅とニセコ駅の中間、比羅夫駅

ポイントのある交換(列車すれ違い)駅だったことのある比羅夫駅なので、名残の軌道床跡が残り、駅舎も大きい。
今は単線、ホームも1面。

ニセコマウンテンリゾート グランヒラフ(旧ニセコひらふスキー場)への最寄駅なのだが、そこに行くには比羅夫駅ではなく倶知安駅かニセコ駅で降りてタクシーかバスを使うべき。
比羅夫駅前に、客待ちタクシーは停まっていない。
比羅夫駅には、バスも寄らない。

この駅から乗る人、この駅で降りる人は極めて少ない。
そのはずだ。
ここに至る道路は普通車でもすれ違えない。
駅前に立って目に入る人家の数は、指を3本折るとそれで終わり。

150725_5【画像:上】
釧網本線の北浜駅は、駅が喫茶店。
駅舎内に喫茶店やレストランがあるのは珍しくないし、大都市の拠点駅ではデパートが駅舎そのものを構成していたりする。
北浜駅が気を引くとすれば、そこが無人駅だから。

比羅夫駅は、駅が宿(注)
比羅夫駅が気を引くすれば、そこがやはり無人駅だから。

〝人込みは嫌いだ〟と言うヒトは多い。
〝ヒトと関わるのはわずらわしい〟という意味で言っているのなら、人生あと10年必要。

人込みなんぞ、好きなヒトがいるわけない。
しかし、雑踏ほど人間関係を希薄にする空間はない。
雑踏にいるのは、数え切れない他人。
他人は自分に関わらないし、自分も他人には関わらない。

比羅夫駅
ここに雑踏はあり得ない。
ヒトは少ない。
が、その少ない他人は特定の他人。
特定の他人同士だから、「誰かと私」の関係がどうしたって生まれる。
30秒か30分か、せいぜい何時間かの関係なのだが、言葉をかわすことがなくても、無関係では決していられない。

だから、〝人込みは嫌いだ〟と言うヒトは、こんな所には来るべきではない。

列車に乗って来るところを車で、と、つまらない行程にしてしまった(^^;
冬に、白い息を吐いて列車から降り立つべき駅だろう。

本日、駅が宿比羅夫駅 駅の宿ひらふに投宿。

ひと時、その場限りの、「誰かと私」の関係が生まれる。
あす朝には消滅する、はかない友情が。

【画像:中】
西にニセコアンヌプリ、東に羊蹄山。
その2山の頂を結ぶ線の真ん中が比羅夫駅

背中で聞こえる瀬音は尻別川。

【画像:下】
長万部発札幌行の最終列車がホームを離れた。
21時23分、定刻通り。

ほどなくホームの照明が落とされ、鉄路が闇に沈んだ。

雨降り止まぬ。

(注)
日本で駅が宿なのはここだけ、と、しばしば紹介される。
無人駅でと限定すればその通り。
その限定を外せば、東京駅々舎内には伝統ある立派なホテルが入っているし、大阪駅や札幌駅も駅構内にホテルがあるようなものだ。
国有鉄道時代と違って経営自由度の増したJRの駅舎内・駅構内に宿泊施設を置く例が、この先は増えていくように思う。

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2015年7月19日 (日)

廃駅跡にて

羊蹄山に4つある登頂ルートのひとつの喜茂別コースは、登山口が喜茂別町留産地区にあり、廃線となった胆振線の留産(るさん)駅が近かった。
年配の登山者と話す時は、喜茂別コースと呼ぶよりも、むしろ留産コースと呼ぶほうが通りがいいくらい。

以下、ネットで拾える話の羅列だが、私の備忘として。

胆振線のそもそもは、脇方(京極町)で得られる鉄鉱石を室蘭に運ぶことが目的。
その目的のために、京極-倶知安間が敷設され、既設の函館本線とつながった。
倶知安から札幌・岩見沢・苫小牧と経由して室蘭に至る、鉄鉱石輸送鉄路ルートができたわけだ。
’19(大正8)年のこと。

のち、京極から室蘭本線につながる伊達紋別間に鉄路が敷設され、道央に大ループ線が完成している。
大ループの完成は’26(大正15)年。

留産地区の開墾のために人が入ったのは、1895(明治28)年頃。
留産地区を通過して走る倶知安-喜茂別道が’07(明治40)年には開通したから、以降、開墾のピッチは上がったものと思われるが、何と言っても豪雪地帯。
冬、この地区へのアクセスは難しかっただろう。

胆振線の歴史のスタートが産業輸送線。
だが、倶知安に至る鉄路の通過線上という地の利があって、留産駅開業は’28(昭和3)年と早い。
胆振線の廃線、つまり留産駅が閉じたのは’86(昭和61)年。
60年ほどの歴史だったということになる。

Photo_2【画像:上】
留産駅跡へ。

この画像正面に留産駅があったのだが、駅舎もホームの痕跡もない。
軌道床は畑と化していて、鉄道が通っていたことを示すような遺構は何も残っていない。

〝軌道床は畑と化して〟と書いたが、廃線後の土地を国鉄が農家に払い下げている。
実際の経緯は、以下のようなことだったのではと推察。

元々畑だったところを、鉄道敷設のために国が農家から土地を買い上げ。
あるいは、土地の供出と停車場建設をバーターしたか。

60年たって、畑が畑に戻っただけのことなのでは・・・

画像奥は、尻別川。
手前の花は、ジャガイモ。
花弁が白い。
キタアカリ。

【画像:下】
農業とは従事者を増やしにくい産業で、農家を継げるのは長男のみ。
他の者は、出てゆかねばならない。
都会に働きに出るため、ここから汽車に乗った者もいるだろう。
入営のため、ここから汽車に乗った者もいるだろう。
嫁ぐため、ここから汽車に乗った者もいるだろう。
留産からは、どれくらい者が出て行ったのだろう。

駅に休業日はない。
留産駅の無人駅化は’72(昭和62)年。
それまで、この付近には国鉄官舎があり、駅が毎日活動していた。
365日、この駅から乗り、この駅で降りた者たちがいた。

ここから都会に働きに出た者、入営のために出た者、嫁ぎに出た者たちがいた。

タイトルを『廃駅跡にて』とした。
しかし、留産には〝跡〟さえない・・・

クモの巣に雨粒。
あの日と同じ雨だ・・・

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