岩内にて
その なぜかいい町の 岩内 に一泊。
岩内へは岩内線廃線跡をたどって。
岩内線については、拙ブログに 小沢駅にて で記事にしたことがある。
ところで・・・
戸籍に関する事務は市町村の仕事。
戸籍を作る事務を〝編製 〟
籍をアッチからコッチに移すことを〝移籍〟
戸籍筆頭者(戸主)として新しい戸籍を作ることを〝立籍(りっせき)〟
という。
碑銘は、
『文豪夏目漱石立籍地』
左手遠景は岩内岳(1086メートル)
亡くなったのも新宿区内。
その漱石が、25歳のときに 岩内 に戸籍を移し立籍している。
東京に籍を戻したのは、22年後。
確実な証拠はないが、徴兵を逃れるためだったという説が有力。
その経緯を年表風に並べると、
1892(明治25)年 岩内に立籍
1914(大正 3)年 東京に移籍
1916(大正 5)年 死没
漱石が、自身の本籍について書いたのは一度。
1912(大正元)年発行の『極北日本(高原操著)』(注2)に寄せた序文の冒頭に、
余は東京の場末に生れたものであるが、妙な関係
から久しい以前に籍を北海道に移したぎり、今に
至つて依然として後志國の平民になつてゐる。
と、籍を移した理由を〝妙な関係から〟とだけ。
『極北日本』を読んだ流れで、1966(昭和41)年に刊行された『岩内町史』も読んだ。(注3)
漱石が岩内に立籍した地番の まさに ここに居を構えていた家主の弟が町史編纂者に語った言葉が採録されていて、その言の最後は、
当時北海道は戸主徴兵免除の時代であった
(注1)
この碑の正面画像は、ネットでいくつも拾える。
裏面画像は拾えない思うので、ここに。
碑文は、
明治二十五年四月五日。文豪夏目漱石本籍を東京
牛込より此處吹上町淺岡仁三郎方に移す。二十五
才から四十七才まで二十二年間、その半生をここ
に本籍を置いたゆかりの地である。
昭和四十四年三月建之
岩内町
(注2)
『極北日本』の副題は『樺太踏査日録』。
著者の高原操(たかはら みさお )は朝日新聞社の取締役だった人。
漱石と高原は師弟関係。
高原の旧制高校在校時の英語の教授が夏目漱石。
なお、今現在、『極北日本』を書籍の形で手にすることは かなり難しい。
が、所蔵書籍のデジタルデータ化を進めている国立国会図書館にアクセスすると、本書の全ページをデジタル画像で読むことができる。
本記事末に、備忘ため もう少し書き写しておく。
(注3)
今や、市町村史の執筆を書籍編纂業者に外注する自治体もあるようだ。
が、『岩内町史』は岩内町役場職員だった人が ほぼ一人で編纂している。
力作。
かつ、町史・資料集の域を超えた読本となっている。
〈備忘録〉
余は東京の場末に生れたものであるが、妙な関係
から久しい以前に籍を北海道に移したぎり、今に
至つて依然として後志國の平民になつてゐる。
原籍のある所を知らないのも變だと思つて機會が
あつたら一度海を越えて北の方へ渡つて見たい積
りでゐたが、つい積計で實行の決心は容易に出來
ず、來る年來る年を荏苒と暮して仕舞つた。
二三年前ある知人が、あちらへ行くから一所に行
かぬかとわざわざ勧めて呉れたが、其の時も都合
が悪くて矢張愚図々々東京に殘つてゐた。
戸籍面からいふと故郷ともいふべき北海道ですら
斯の通りだから、其先の樺太へ旅行などは固より
思ひも寄らぬ事で、樺太と云へば嘸寒いだらうと
想像する位がせきの山であつた。
漱石は、その生涯中、一度も来道していない。












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