『消された唱歌の謎を解く』を読む
新聞に足掛け4年にわたって連載された、
『歴史に消えたうた 唱歌、童謡の真実』
『歴史に消えた唱歌』
を再編集して一書と成したもの。
前者の背景は帝国時代の日本
後者の背景は帝国統治時代の台湾・朝鮮・満州
連載していたのは産経新聞。
産経新聞、北海道では、キヨスクでもコンビニでも買えない。
産経新聞の論調は、保守調というか旧守調というか復古調というか。
そんな新聞に連載されていた記事を編集したものだから、本書にも保守調というか旧守調というか復古調というか そんな気分が色濃く流れる。
それを、どうだこうだ・・・
と、言うほどのものを私は持っていない。
こんな喫茶店で読み始め。
『ペチカ』
雪の降る夜はたのしいペチカ
ペチカ燃えろよお話しましょ
文科省検定済の小学5年生用音楽教科書に、『ペチカ』が採用されている。
〝ペチカ〟なんて、本州の小学校教諭は教えられるのだろうか。
北海道の教諭だって、難しいように思う。
そのはず。
『ペチカ』の、作詞は北原白秋、作曲は山田耕筰。
本曲の舞台は日本内地ではない。
満州。
1924(大正13)年、満州の日本人学校の音楽の教科書に採用されたのが、そのスタート。
本夕、読了。
歌謡はときに、〝リリー・マルレーン〟や〝あゝモンテンルパの夜は更けて〟のように歴史的逸話を残すほどの力を持つ。
『故郷(ふるさと)』
うさぎ追いし かの山
こぶな釣りし かの川
本曲が文部省唱歌に採用されたのは、1914(大正3)年。
尋常小学校6年生用教科書。
で、今々現在も、小学校6年生用教科書に採用されている。
が、この曲は、1942(昭和17)年から 戦時下 文部省唱歌から外されていたという。
理由は、この曲が外地の兵士たちに里心を引き起こし、そのことで戦意を喪失しかねないことをおそれて。
コメント
おはようございます。
私が育った家は、親父が設計して友人の建築屋に作ってもらった、カッコよく言えばオーダーメイドの建物でした。
親父にこだわりがあったようで、ペチカがありました。
熱源はふつうの灯油ストーブでしたが、レンガ??の壁がほわほわに熱を持ちます。ペチカの上の温度がちょうど良くて、水槽を置いてブラウンシュリンプを育てました。燃える心配が無いので、ストーブの無い裏側で、服や靴をあっためたり。
私には当たり前の存在でしたが、今ではなかなかペチカを見ることは無くなりました。ペチカと言っても判らない人もいますね。
投稿: めりー | 2022年3月27日 (日) 05:40
めりーさん、こんにちは
ペチカの家に住んでいましたか。
居眠りにふさわしい暖かさが想像できます。
ペチカや暖炉は、今の時代は主暖房というより、装飾品の意味合いが強そうです。
薪・ペレットストーブのある家もあるようですが、手がかかるようで主暖房として使いこなすには、気持ち・時間に相当な余裕が必要なようですね。
そんな余裕のある女性の、火の方に向かって組んで座った足に斑が浮かぶ様子を描いた一節のある小説を読んだことがあります。
羊蹄山の避難小屋にはコークスストーブがあります。
フレコンバッグに入ったコークスが私の目の子で3トンばかりストックされています。
大量にあるとはいっても、ヘリで荷揚げした貴重な燃料なので焚かれる時間はわずか。
2階にまで伸びた煙突からの放熱が終わってしまう前にシュラフに潜り込むわけです。
山田耕筰はドイツ留学からの帰途にシベリア・満州を通過しているのでペチカの実物を見ていますが、北原白秋の満州旅行は『ペチカ』作詞の10年以上あと。
『ペチカ』の歌詞は、詩人の頭の中の風景というわけです。
小学校音楽教科書に載っているのは、『ペチカ』の一番だけ。
二番は、
雪の降る夜は たのしいペチカ
ペチカ燃えろよ おもては寒い
くりやくりやと 呼びますペチカ
ここで、〝くりや〟とは〝栗や〟。
焼き栗のことです。
私が天津で食べた焼き栗は、ペチカで焼いたものではなく、ガスで攪拌されながら熱せられた玉砂利で焼いたものでした。
投稿: KON-chan | 2022年3月27日 (日) 09:21