『フォン・ノイマンの哲学』を読む
フォン・ノイマンはハンガリーに生まれ、1930年、27歳で米国に渡る。
ハンガリー語を母語とするが、ラテン語・ギリシャ語・ドイツ語・フランス語・イタリア語・英語を含めた7つの言語に通じ、考えるのはドイツ語で。
大学で応用化学を学びつつ、大学院博士課程で数学を専攻。
大学卒業と同時に化学で学士号、数学で博士号を取得。
その生涯は1903年-1957年と短いが、20世紀の数学・物理学・経済学などに大きな影響を与えた天才。
内蔵プログラム(OS)によって処理をするための、入出力・記憶・演算・制御機能を有するコンピュータの構成をノイマン型計算機と呼ぶ。
今、我々が使うコンピュータの基本構成の提唱者もフォン・ノイマンそのヒト。
こんな飯屋で、読み始め。
フォン・ノイマンの天才を示す逸話には枚挙にいとまがない。
8歳で44巻あるドイツ語の『世界史』を読み通す。
で、30歳を過ぎて米国の古戦場を訪れた際、南北戦争の章をそらんじて
みせる。
10歳から正規教育(ギナジウム:10から17歳までの大学入学前に
一貫教育をほどこす学校)を受ける。
ギナジウム校長が彼の天才に気付き、数学の大学教育を受講させる。
世界初のデジタルコンピュータの誕生は1946年のENIAC。
その5年後の完成のMANIACの性能試験で。
MANIACが計算結果を出力するよりも先に、彼が暗算で解答を出す。
等々。
米国中の優秀な数学者・物理学者を集めて進められたマンハッタン計画(原爆開発プロジェクト)で、彼は重要な設計を成す。
原爆投下地決定会議に、科学者代表として出席するほどの地位の彼。
原爆投下地には皇居も候補にあげられていたが、戦後の占領政策までを見通していた彼は日本が命令系統を失うことを危惧、それに強く反対している。
科学的に可能だとわかっていることは、それがどんなに恐ろしいことだとしても、やり遂げなければならない。
そして、原爆開発に罪悪感を持つ物理学者に、彼は、
「我々が今生きている世界に責任を持つ必要はない」
と言う。
本夕、読了。
戦後、学術職の米国数学会々長に就き、死の直前までホワイトハウス・国防総省・陸海空軍などから重要・機密プロジェクトの責任者・相談役を委嘱されたように、天才特有の気難しさや奇行は彼にはなかったようだ。
ネクタイを締め、スーツを着て胸ポケットからチーフをのぞかせている写真が何枚か掲載されている。
20代で大学教授職に就いた時に、学生と間違えられないようにと始めた習慣。
夕食時、大人たちがロンドンやウィーンの演劇界を話題にする。
フォン・ノイマンが言ったのが、
「舞台というのは、現実と空想の架け橋なんだね。」
彼、8歳の時のこと。
コメント
このような、素晴らしい頭脳を持った人と、私の頭脳の何処が違うのかな。脳の中の神経の本数が多くて、並列に繋がっているとか。。それで処理が早いとか。電気信号に反応する細胞が敏感で、私の神経細胞が1つ感じている内に2つ3つの信号を感じられるとか、そもそも細胞の数が多くて
一度に見渡せる情報が多いとか。情報を記憶する量が多く、なかなか忘れないし、引っ張り出してくる速度も速いとか。。あまり、短時間に頭脳を使い巣来たので50年くらいで死んでしまったのかな、そんなこと無いよな。
投稿: ja8oxy | 2021年10月16日 (土) 03:43
ja8oxyさん、こんにちは
ノイマンはすい臓ガンから全身に転移した骨腫瘍で亡くなるのですが、その発症は何度も立ち会った核実験で浴びた放射線が原因だろうと言われています。
解決しなければならない問題が生じた時、それを解決するために天才性を発揮したノイマンですが、問題それ自体を発想することはなかったように言われます。
しかし、本書によればそんなことはなかったよう。
ノイマンは、不完全性定理(数学理論自身では数学理論自身に矛盾がないことをを証明できない)の着想をゲーデルに手紙で知らせています。
もっとも、その手紙の投函の3日前にゲーデルが不完全性定理を論文化しているのを知り、以降、数学基礎論からは身を引いたそうですが。
天才ノイマンが、天才を認めた ただ一人の人物が同じハンガリー人のゲーデルでした。
我々は、
「やればできる」
と言って、努力すれば〝できる〟ようになると思っています。
が、
「やらなければできない」
結局は〝やらない〟し、〝やってもできない〟(^^;
天才は入力量に対して出力量がとんでもなく大きい、というか、入力に対して出力の方向が全然違うんでしょうね。
将来、脳の働きが明らかになり、コンピュータが天才をシミュレートするようになるのか。
天才はせいぜい1日に2000kcalを摂取するだけ。
2W・hちょっと。
投稿: KON-chan | 2021年10月16日 (土) 11:53