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2021年5月11日 (火)

『四十七人目の浪士』を読む

昨年の2月19日の拙ブログの記事は、
 『「忠臣蔵」の決算書』を読む

当該記事の最後に、私は、
 討ち入りは四十名。
 しかし、討ち入り直後の点呼に応じたのは四十名。
 姿を消した一名は特定されていて、当人が討ち入りに参加した理由も
 姿を消した理由も本書中で考察されているが ここでは触れない。
と書いた。

本書は、その姿を消した男の話。
小説仕立てなので、描写の全てが史実と一致するわけではないが、読んでいて史実と創作がゴッチャになることはない。

Photo_20210510124701
こんな喫茶店で読み始め。

件の人物は、寺坂 吉右衛門(てらさか きちえもん)。
四十七士中 唯一の足軽で、士分(武士)ではない。
足軽ゆえに剣術の心得のない吉右衛門は、討ち入りを控えて堀部 安兵衛に剣の猛稽古をつけてもらう。

討ち入りは、浪士を二班に分け、吉良邸の表門と裏門から。
吉良邸は、部屋数70の大邸宅。
かつ、討ち入り必至を予測して、ウデの立つ者が詰めている。
その数120人。

練りに練られた討ち入りの、吉右衛門に与えられたのは、その表門と裏門間を往復する伝令の役。
吉右衛門は、討ち入りの全体を見たただ一人の当事者ということになる。

本夕、読了。

吉右衛門が討ち入り直後に姿を消した理由には いくつかの説がある。
当初、大石 内蔵助が身分の低い吉右衛門を討ち入りに参加させることをためらったのは史実のようだ。

だが、士分の身でない吉右衛門に、幕府は切腹を命じないのは周知。
生きながらえることが確実視できる吉右衛門に、内蔵助は浪士らの活動を、関係する赤穂の遺族らに伝える命を与えて隊列を離れさせたことに本書ではなっている。

討ち入り時38歳の吉右衛門は、82歳の天寿を全うする。

以下、赤穂事件の顛末を時系列に沿って並べると、
・1701年4月21日11時過ぎ(元禄14年3月14日)
 浅野内匠頭が吉良上野介に対し刃傷
・同日(18時頃)
 幕府の命により、浅野内匠頭切腹
 同、赤穂浅野家取り潰しの達し

・1701年5月27日(元禄14年4月19日)
 幕府の使者へ赤穂城の引き渡し

・1703年1月31日4時頃(元禄15年12月15日)
 赤穂四十士、吉良邸へ討ち入り
・同日(5時頃)
 吉良上野介を討ち取る
・同日(8時過ぎ)
 泉岳寺の内匠頭墓前に上野介の首を携える

・1703年3月20日(元禄16年2月4日)
 幕府の命により、赤穂四十士切腹

・1747年11月8日(延享4年10月6日)
 赤穂四十士目の浪士 寺坂吉右衛門逝去

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