『江戸の御触書』を読む
後藤新平(1857年-1929年)は東京市長だったヒト。
市長を退いて半年ほどで関東大震災。
その直後、彼は内務大臣兼帝都復興院総裁に就任し、当時の国家予算の1年分に相当する大胆な都市計画で東京を復興する計画を立案する。
その計画が具現化していたら、東京は整然とした都市になっていただろう。
が、その計画は予算を確保できず具現化しなかった。
整然とした都市が面白い都市とは限らない。
後藤新平の復興案が実現しなかったのは、悪いことではなかったのかもしれない。
札幌は計画都市。
道路幅は広い。
その札幌より、名古屋市の道路は更に広い。
戦災からの名古屋市役所の復興計画立案は大変に早く、それを進める実行力もあったがゆえ。
日本国内に幅員が100メートルある道路は3本。
広島市に1本。
名古屋市に2本。
こんな飯屋で読み始め。
明暦3(1657)年、時の将軍は第4代家綱。
1月、江戸を焼き尽くしたのが明暦の大火(振袖火事)。
その2ヶ月後に掲げられた御触書は、
跡々相改 道幅相極め 杭を打置候所は・・・
(あとあとあいあらため みちはばあいきわめ
くいをうちおきそうろうところは・・・)
延焼防止を目的に、幕府が
・火災跡を調査
・道幅を決定
・杭を打つ
ので、それに従え という内容。
道幅はメートル換算で、10メートル。
特に防災上の要件から、
日本橋通町は、18メートル
本町通は、12メートル
と、江戸の町の道の作り替え。
本夕、読了。
寛政8(1796)年。
将軍は第11代 家斉。
掲げられた御触書は、
一寺住職の身ながら、新吉原へ灯籠見物として行かよひ、そが上
遊女買上げ・・・
本書内の表現を借りれば、〝エロ坊主に気をつけろ〟ということ。
この御触書が掲げられて7年後、一人の僧侶が処刑されている。
処刑されたのは、僧侶の日動。
罪状は、59人の大奥女中をたぶらかしたというもの。
これが、のちの世に、谷中(やなか)延命院事件と呼ばれた大スキャンダル。
この事件の顛末は、500巻を超える大書、江戸幕府の公式歴史書の『徳川実紀』には記されていないという。
その理由は、再び本書内の表現を借りれば、〝幕府としてはよっぽど恥じ入る事件だった〟から。
コメント
59人もたぶらかすことが出来るのは、それだけの魅力があったからでしょう。
それができない人は、それを妬むのでしょう。
あれっそうじゃなく、お金で買ったつまり財力の問題だったのかしら。
いまちょうど読んでたのが、遊廓の色恋沙汰の物語でしたので、
こういう話って、今も昔も変わらず、結局は嫉妬とか独占欲とか、皆が多かれ少なかれ持ってるそんなドロドロした物なんでしょうね。
だから、表向きは〝よっぽど恥じ入る事件だった〟とされるのかも知れません。
投稿: めりー | 2021年2月10日 (水) 08:05
めりーさん、こんにちは
僧侶になる前は歌舞伎役者だったようで、めりーさんをもとろけさすような それはもういい男だったようです。
あ、失礼。
めりーさんは、こんな男には引っかからないか(^^)
遊女じゃなく遊男状態だったらしく、女のほうからこの僧侶のもとへ通っていたのだと。
大奥女中だけでも59人。
この男のもとに通った総人数はこれに倍する数になります。
江戸時代版ナンバーワンホスト。
江戸町民の中でおさまっていたら、規模の大きい色恋沙汰、死罪とまではならなかった思いますが、何せ、江戸城大奥の女中を59人ですからね。
幕府にとっては、徳川の歴史に残せることではなかったようです。
めりーさんのおっしゃるドロドロ。
多かれ少なかれではないと思います。
多かれ多かれ(^^;
いつの時代も、男も女も罪びとです(^^;
投稿: KON-chan | 2021年2月10日 (水) 09:13