『デス・ゾーン』を読む
〝デス・ゾーン〟とは、標高8000メートルから上のこと。
酸素分圧は海面の1/3。
この高度になると、ヒトは高度順応ができず、体が消費する酸素を呼吸だけからは まかなえなくなる。
つまり、呼吸によって得られる以上に体が酸素を消費するので、安静にしていても疲れが進行する。
副題は、『栗城史多のエベレスト劇場』。
栗城史多(くりき のぶかず)とは、登山家。
エベレストに臨むこと8回。
が、8回ともデス・ゾーンの標高まで到達できず。
2018年、8回目のエベレストから撤退中、遭難死。
享年35。
こんなイートインシートで、読み始め。
北米・南米・欧州・アフリカ・豪州・南極の6大陸(6大州)の最高峰の登頂に単独・無酸素で成功した栗城史多。
アジア最高峰を登頂すると、セブン・サミッター(7大陸最高峰登頂者)となる。(注)
アジア最高峰とは、世界最高峰のエベレスト(8848m)のこと。
今金町に生まれ、札幌の大学に進学、北海道の人脈によって遠征費用を得て世界の高山を登っていた栗城史多。
エベレストの登頂も単独・無酸素でと考えている栗城史多を、著者はエンターテインメント番組制作者の立場で追う。
著者はHBCのディレクター。
北海道の人間を、北海道の放送人が追うのだから地の利がある。
が、やがて放送素材としての栗城史多の価値は、地方の放送局では扱えないほどに高まる。
著者自身も、何度もエベレスト登頂に失敗する栗城史多に興味を失っていく。
また、栗城史多の言う単独・無酸素のあいまいさに踊らされていた自分自身の愚かさにも気付く。
無酸素登頂とは〝デス・ゾーン〟圏で、酸素ボンベを使わずに頂上を目指すこと。
栗城史多の既登の6大陸の最高峰に、〝デス・ゾーン〟、すなわち、標高8000m以上のピークはない。
単独とは、既設ロープ、他力頼みの荷上げなどは行わないこと。
栗城史多は、それらを使う。
本夕、読了。
他の登山家らは、栗城史多の体力・技術を素人同然と見ていたようだ。
冬の羊蹄山さえも山頂まで上がれず、7合目から引き返すといった具合。
お調子者の大ぼら吹きのようだが、しかし、彼に実際に会った者は誰もが栗城史多を〝憎めない〟という。
エベレスト遠征には、スポンサーから1億、2億と金を集める。
仏の顔も三度までどころか、8回目のエベレスト遠征時にでさえ数千万の金を集めている。
そういう才覚というか、栗城史多とは援助、投資させたくなる人間だったようだ。
彼の人生は、天を突くエベレストの真っ白な頂のように「単独」だった。
と、書いて著者はペンを置く。
栗城史多は言うだろう。
「死んだあとに、言われても・・・」
(注)
栗城史多が登山を始めた頃には、セブン・サミッターは珍しい存在ではなくなっていた。
例えば、'92年には田部井淳子が達成している。
栗城史多の登山歴を簡単に記しておく。
'82年 今金町で誕生
'04年 6月 マッキンリー(北米最高峰 6194m)登頂
'05年 1月 アコンカグア(南米最高峰 6959m)登頂
同 6月 エルブルース(欧州最高峰 5642m)登頂
同 10月 キリマンジャロ(アフリカ最高峰 5895m)登頂
'06年10月 カルステンツ(豪州最高峰 4884m)登頂
'07年 5月 チョ・オユー(世界6位峰 8201m)登頂
同 12月 ビンソンマシフ(南極最高峰4892m)登頂
'08年10月 マナスル (世界8位峰 8163m)(*)
'09年 5月 ダウラギリ (世界7位峰 8167m)登頂
同 9月 エベレスト 7950mで撤退<1回目>
'10年 5月 アンナプルナ(世界10位峰 8091m)7700mで撤退
同 9月 エベレスト 7750mで撤退<2回目>
'11年 5月 シシャパンマ(世界14位峰 8013m)7600mで撤退
同 9月 エベレスト 7800mで撤退<3回目>
'12年 5月 シシャパンマ(世界14位峰 8013m)7000mで撤退
同 9月 エベレスト 7700mで撤退<4回目>(**)
'14年 7月 ブロード・ピーク(世界12位峰 8037m)登頂
'15年 9月 エベレスト 7900mで撤退<5回目>
'16年 5月 アンナプルナ(世界10位峰 8091m)6300mで撤退
同 9月 エベレスト 7400mで撤退<6回目>
'17年 5月 エベレスト 6800mで撤退<7回目>
'18年 5月 エベレスト 7400mで撤退<8回目>(***)
(*)
マナスルには真のピークの手前に、数十m低い準ピークがある。
準ピークから真のピークまでは、狭い稜線を歩く必要がある。
栗城史多は自分が踏んでいる準ピークの先に真のピークがあることを知っていながら、そこまで進んでいない。
(**)
凍傷で、右手親指を除く他の9指の第2関節から先を失う。
(***)
ヘッドランプの電池を消費。
無光源での日没後の下山中の遭難のため、キャンプサイトからは滑落地点、滑落時刻を確認できていない。
滑落距離は2、3百mと推測されている。
コメント
今晩は。
私はせいぜい近所の山を歩くだけ、いや、山って言えないような道ですが⤴️(+_+)。
隣の町会へ続く山道ですから(-_-)。
船長も、栗城氏も、植村氏も、私なんぞからしたら、スーパーマンだ。
栗城氏も植村氏も、その時は、寸瞬の
出来事だったに違いない。
冬山に登る❓️。信じられない。
私には到底無理。発想すら無い。
昔、富士山を滑降したのに
80になってエベレストに登った
あの人は宇宙人だ。
投稿: きーさん | 2020年12月18日 (金) 20:04
きーさん、こんにちは
栗城史多にはエベレストに単独・無酸素で登頂する力がないことは他の登山家たちは気付いていたのに、彼自身だけは〝できる〟と信じて疑っていなかったようです。
過信でもうぬぼれでもなく、そう自分の力を自己評価していたみたい。
が、3回、4回とエベレストの8000m域にも達せずに撤退する彼に対するネット民からの批判は、彼の精神を消耗させます。
本書には、栗城史多をヒマラヤの情報を伝えていた札幌の登山家の言葉を以下のように書いています。
「どこが単独だ、って批判するけどさ、私だって『大雪に行ってきたよ、単独で』って何気なく使うもの。俺一人で登った、とりあえずそんな感覚だよ。栗城は考えてなかったんだ、深くは。」
そして、'78年に犬ゾりを使って北極点単独行を成功させた植村直己を持ち出して、こんなことも言っています。
電通がスポンサーにつき、ソリを曳く犬が死ねば衛星電話をかけて犬を届けてもらっていた植村直己の北極点単独行。
「あの単独行は批判しないのに、皆、栗城をいじめすぎだよ。」
山はヒトを狂わせますね。
栗城史多をおかしくしてしまったことには、彼を放送素材としてしていた著者にも責任があります。
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帯の森達也の言を読んで下さい。
私は冬の山も歩きますが、ハイキング、お散歩ルートをウロウロするだけ。
いいんだなァ、これが(^^)
投稿: KON-chan | 2020年12月18日 (金) 23:24