『ひとりメシ超入門』を読む
東海林さだおの〝食うシリーズ〟はほとんど 読んでいる。
週刊誌に連載中のものを読んだことも、四六判の単行本で読んだものもある。
しかし、一番いいのは文庫本。
構えて読むような内容ではない。
夜汽車の席でとか、夜間飛行の機内でとか、バスを待つ停留所でとか、お茶のお供とかに読む本。
このシリーズは、必ず文庫化される。
それをポケットにねじ込んでいき、読み終えた先で捨ててくる。
そんな読み方をする本。
JR東室蘭・南千歳間だと読み切れないかも。
東室蘭・札幌間、あるいは新千歳・羽田空路間だと余裕で読み切れる。こんな喫茶店で読み始め。
上で、一番いいのは文庫本と書いていながら、新書版(^^;
2月28日出版の最新刊。
以前、『ホルモン焼きの丸かじり』を読む という記事で、
〝東海林さだおは秀才の知性と、天才の視点を持っているヒト。〟
と書いた。
本書も、書かれている風景は〝天才の視点〟。
前のページを再読しなければ理解できないという、ややこしい話は一切ない。
ひとつ前の行を再読しないと理解できないということさえ、絶対にない。
しかし、次のページでの展開はもちろん、ひとつ先の行の展開さえも予測できない意外性に満ちている。
〝意外性〟とは言っても、書かれているのは〝食う〟話。
〝意外性〟とは、〝ウィット〟・〝輝き〟・〝ユーモア〟の言い換え。
本夕、読了。
キリストの最後の晩餐。
パンとワイン。
それと、焼いたサカナも食卓にあがっていたという説がある。
元禄14年3月14日(1701年4月21日)。
江戸城内で吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)に対して抜刀、傷を負わせた浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)は、即日切腹を言い渡される。
最後の食事に長矩が所望したのは、湯漬け(お湯をかけたゴハン)。
それを2ハイ食べて、切腹の場についたと聞いたことがある。
死に臨んでいてさえ、ヒトは食う。
ところが、健康体の東海林さだお、ぬるま湯、白湯(さゆ)をテーマにしたエッセーを書けるヒト。
釜めし。
かき混ぜてから、メシ椀に盛るのが標準的食事作法。
が、かき混ぜず、メシ椀に盛らず、釜から直接食べたい。
なのに、給仕嬢が著者を監視するような所に立っている。
焼肉。
焼き過ぎないように、との言葉を添えられて供される。
給仕嬢が近くを行ったり来たり。
焼き具合を見られているようで落ち着かない。
こんな時、どう食うかが書かれている。
で、その対応策はない(^^;
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