『「忠臣蔵」の決算書』を読む
赤穂事件の経緯は以下の通り。()内は西暦。
なお、ときは元禄、5代将軍綱吉の治世。
元禄14年
・3月14日(1701年4月21日11時過ぎ)
浅野内匠頭が吉良上野介へ刃傷(にんじょう)
・同日(18時頃)
幕府の命により、浅野内匠頭切腹
また、赤穂浅野家お家取り潰しの達し
・4月19日(1701年5月27日)
幕府からの使者へ赤穂城の引き渡し
元禄15年
・12月15日(1703年1月31日4時頃)
赤穂旧臣四十七士、吉良邸へ討ち入り
・同日(5時頃)
吉良上野介を討ち取る
・同日(8時過ぎ)
泉岳寺の内匠頭墓前に上野介の首を供える
元禄16年
・2月4日(1703年3月20日)
幕府の命により、赤穂旧臣四十六士切腹(注)
こんな喫茶店で読み始め。
藩主切腹から赤穂城の明け渡しまで1ヶ月。
その短い期間で、藩の財産整理・財務処理を終える。
売れるものは売り、返せる負債は返し、あるいは割り引いてもらい、藩士・使用人らに立場相応に藩の財産を分配する。
分配された財産は、ほぼ1年間の生活費相当だったようだ。
1年間は何とか食っていける。
残ったのは700両ばかり。
今の金銭価値で8千万円くらい。
ここから20%ほどを亡君の弔いにあてているから、残り600両弱、6千万円。
禄を失い住み家を追われた浪人たちが、このカネをどのように使ったか。
詳しく記された出納簿が残っている。
カネの管理及び討ち入り指揮者は、赤穂藩筆頭家老 大石内蔵助。
本夕、読了。
お家取り潰しとは言っても、腰の大小刀までは取り上げられなかったようだ。
が、討ち入りのための、〝槍(やり)〟や〝鎖帷子(くさりかたびら)〟などの武器・武具が必要で、それらはこのカネから出ている。
赤穂浅野の江戸屋敷に詰めていた者は江戸住まいのまま。大石内蔵助らは上方。
この行き来、通信費、集会場所の確保等々にもカネは出ていく。
討ち入りまで20ヶ月間。
浪士らが食っていける各個人が持っているカネは1年分。
だから、討ち入り直前は困窮を極めたようで、ツケも多かった模様。
そのツケ払いも ここから出している。
当初、討ち入りに参加することを考えていた者は多かったようだが、相当数が脱落してゆく。
そのことが、軍資金がショートすることを最低限に抑えている。
決算書の〆は赤字。
総支出額、697両1歩2朱
赤字額、7両1歩、80万円くらい。
(注)
討ち入りは四十七名。
しかし、討ち入り直後の点呼に応じたのは四十六名。
姿を消した一名は特定されていて、当人が討ち入りに参加した理由も姿を消した理由も本書中で考察されているが ここでは触れない。
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