『アメリカ人のみた日本の死刑』を読む
著者はこの30年間、日本の刑事司法制度を研究してきた米国人。
本書を読むに当たっては、著者の言う〝民主主義〟をイメージできることが必要。
そして、私ごときが言うのも僭越至極、生意気千万、思い上がりが過ぎるが、それをイメージするのは容易。
著者は〝民主主義〟が〝正しい〟・〝最善なる〟体制だと決め込んでいる。
だから、例えば、〝先進民主主義国で死刑制度が残っているのは米国と日本だけだ〟のような言い方をする。
しかし、〝先進〟とは何ぞや、〝民主主義〟とは何ぞや。
その定義も説明も、著者はしない。
しないはず。
著者の言う〝先進〟とか〝民主主義〟とかは、中学校のホームルームレベルの話。
そうかなァ、〝先進〟とか〝民主主義〟とかは、そんな無邪気な話なンだろうか。
と、私は思う・・・
いやいや、アンタ。
〝先進〟とか〝民主主義〟とかは単純・明快・一本道。
中学校のホームルームレベル。
それで、いいじゃないか。
と、言われそう。
それに対して、私は〝ンなことを言ってはいけない〟と非民主主義的に応じたい(^^;
〝アメリカ人のみた〟とある。
〝先進民主主義国〟のヒトが考える日本の死刑制度。
こんな飯屋で読み始め。
以下、本書で使われている言葉で。
先にも書いたように、西洋型民主主義国で死刑制度が残っているのは、米国と日本だけ。
その米国における陪審裁判は、死刑判決を下すには全員一致が必要。
米国においては、死刑は〝特別〟なのだと本書は説明する。
一方、裁判官3名、裁判員6名の計9名で構成される日本における裁判員裁判は、裁判官1名以上を含む多数決。
無罪であっても死刑であっても、9名中5名以上が支持し、その5名の中に裁判官が1名でも含まれていれば、それで判決とされる。
だから、日本において死刑は〝特別ではない〟と著者は書く。
日本の裁判員裁判の多数決判決は、私も何だかなァと思う。
本夕、読了。
えん罪の完全排除が困難なこと。
死刑執行後に、えん罪が判明したとしても、どうにもならないこと。
判決から執行までの時間が長く、懲罰効果が薄れ犯罪抑制につながっていないこと。
また、著者の言葉を借りるならば、非人権的、残酷、絶命に至るまで時間がかかるということもあり、死刑制度は、いずれ米国においても日本においてもなくなる刑罰だろうと。
そしてそれは、死刑制度を廃止、執行の停止を行ってきた諸外国の例から、国民レベルの議論の果てになくなるものではなく、強いリーダーシップを持つ者のかけ声から始まるだろうと。
死刑制度はなくなる制度だろうとは、私もそう思う。
〝法治〟とか〝法の支配〟とは言うけれど、それは決して純粋でも明快でもない。
相対的で歴史的。
大いに変化するし、〝正義〟でさえない(こともある)。
よく言われるように、日本では被害者や被害者の遺族に代わって国家が報復・仇討ちとして死刑判決を出す。
その裁判において、裁判官は居眠りをし、弁護士はほとんど発言しないと。
〝法〟とは・・・
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