『デジタル・ナルシス』を読む
著者は情報技術学者。
デジタル社会を開拓した
バベッジ
ウィーナー
ノイマン
ベイトソン
チューリング
シャノン
の6人の業績を通して、情報空間の今、未来が語られる。
こんな喫茶店で読み始め。
本書の著者は、上にあげたデジタル技術の6人のパイオニアを、〝卓越した〟とか〝並外れた〟とか、〝異端怪人〟とか〝回転の速い〟とか〝圧倒的〟とかという表現でその頭脳の優秀さを評価する。
そして、そう評価した直後に、〝20世紀の枠内におさまっている〟とか〝力不足〟とか〝モノ足りない〟とか〝その意味(の範囲内)で優等生〟とか〝世俗的成功者〟とかとケナす。
著者は、彼らの論文で学んで、情報技術の専門家となった世代。
そのことと、6人の頭脳に驚嘆しながらも その生み出したものをケナし、
「形式化への希求は、ときおりグロテクスな社会的生産物を分泌する」
なんて文章を書くこととは大いに関係がある(ように思う)。
本夕、読了。
本書の初版は、1991年。
Windows95の発売前で、日本では一部の大学・企業で実験的にインターネットでつながっていた頃。
本書から引用した、
「形式化への希求は、ときおりグロテクスな社会的生産物を分泌する」
といった気取ったフレーズが、いったい何を言っているのかというと、
「ヒトにとって、システムの一般化、アクセスの容易
さはとても大事。
目先の利いたヒトは、そんなシステムを社会に供給
する。
例えば、Microsoft Windows とか Googleの検索
エンジンは多くのヒトが使うし、企業はオンライン
広告を流してくる」
くらいのこと。
だが、そのことを1991年には見通していたというところに、著者の眼が高い所にあることが分かる。
著者は情報技術エンジニアとしてメーカーに勤めたのち大学に戻り、情報技術の研究、教育に携わったヒト。
なので、冒頭で著者を情報技術学者と紹介した。
しかし、このヒト、情報技術の専門家であることにとどまらず、哲学書も読めば小説も書く。
〝デジタル・ナルシス〟とは、著者の表現では、
「現代あるいは近未来の時代精神の体現者」。
つまり、たった今現在のデジタル技術にかかわる者、デジタル技術を使う者、デジタル技術で遊ぶ者、デジタル技術で情報を発信する者・受ける者のこと。
上で、
そのことと、6人の頭脳に驚嘆しながらも その生み出したものをケナし、
「形式化への希求は、ときおりグロテクスな社会的生産物を分泌する」
なんて文章を書くこととは大いに関係がある(ように思う)。
と、書いた。
バベッジ・ウィーナー・ノイマン・ベイトソン・チューリング・シャノンといった天才たちが見通せなかった未来を著者は見ているという その自負を感じたから。
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