『ロシアから見た北方領土』を読む
以下、歴史順の国体に従い、
帝政ロシア
ソ連
ロシア
江戸幕府
日本帝国
日本
と使い分けて記す。
上記表現が難しい場合は、
露
日
と記す。
日露間国境が具体的に示された最初の公文書は、日本国露西亜国通好条約(1855(安政2)年 :ニコライⅠ世 13代将軍 家定)に記された、
「択捉(エトロフ)島と得撫(ウルップ)島間の択捉海峡」
直近の公文書は、ソ連政府の対日覚書(1960(昭和35)年:ニキータ・フルシチョフ 岸信介)に記された、
「日本から外国軍隊の撤退の後、歯舞及び色丹諸国を日本に引き渡す」
こんなドーナツ屋で読み始め。
日露近世史、外交史。
私ごときがああこう言うレベルを大きく越えた話で、240ページの薄い本に私が貼付したポストイットは64枚。
書き込んだ線は、その倍。
外交とは国家間の交渉・調整。
ではあるが、同時にその結果が自国民に納得感を与えられねばならない。
理屈の通った外交過程であろうとも、それが自国民に敗北感や不平等感を持たせるわけにはいかない。
副題が、『日本から見れば不法でも、ロシアにとっては合法』。
帝政ロシアが言うことは筋が通っている
ソ連が言うことは筋が通っている
ロシアが言うことは筋が通っている
江戸幕府が言うことも筋が通っている
日本帝国が言うことも筋が通っている
日本が言うことも筋が通っている
本夕、読了。
日露は4回戦火を交えている。
1回目は、日露戦争(1904~05)
2回目は、シベリア出兵(1918~25)
3回目は、ノモンハン事件(1939)
4回目は、第二次大戦末期(1945)
4回目のソ連の日本帝国へ攻撃は、日本帝国降伏後も砲火をおさめなかったということはあるけれど、攻撃開始はソ連からの対日宣戦布告後。
その前の3回は、いずれも日本帝国が先に攻撃を仕掛けていて、しかも それが帝政ロシア・ソ連への宣戦布告の前。
ロシアの日本に対する不信感は根強い。
特に足掛け8年にわたるシベリア出兵に対しては、2011年にプーチン大統領はロシア国民に次のように語っている、
『我々には二つの困難な時期があった。 皇帝が去って(ロシア革命、ソ連誕生のこと)すぐ始まった惨事(日本帝国のシベリア出兵のこと)、それと1991年(ソ連崩壊)だ』
外交とは、知性活動そのもの。
著者は書く。
〝どっちもどっち〟と。
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