『アジア沈殿旅日記』を読む
以前、拙ブログの 『旅の理不尽』を読む で話題にしたのと同じ著者。
本書は、『アジア沈殿旅日記』という題名を、『旅はときどき奇妙な匂いがする』と改題して単行本出版されていたもの。
それを改めて元の題名の『アジア沈殿旅日記』として昨年末に文庫化。
旅行先は、
台湾
マレーシア
インド(ラダック)
熊本
こんな飯屋で、読み始め。
『旅の理不尽』には、サラリーマンだった著者が休暇や出張を使って、とにかく楽しくて楽しくて しようがないという旅の話が書かれていた。
本書『アジア沈殿旅日記』は、文筆家として独立後に書かれている。
旅程を組むために休暇をやり繰りする必要はないので、行き先は成り行き、泊まるところを決めるのは現地到着後。
「旅の興奮は、たいていは何の変哲もない場面にこそ宿るものだ」
と、旅慣れた者が一度は到達する心境が書かれている。
しかし、〝何の変哲もない〟海の見えるリゾートで、日がな一日をビーチチェアの上で〝何の変哲もなく〟過ごそうとした著者は、
「旅の興奮は、たいていは何の変哲もない場面にこそ宿るものだ」
という、旅慣れた者の持つ、落ち着いて純に見える価値観が、実は低俗な大衆レベルのつまらない価値観だと気付く。
そして、言う。
「もし私が、ビーチチェアで寝そべるときがくるとしたら、
それは、あわただしく観光地をハシゴしていく旅行などは
無粋の極みだ、という世間の圧力(価値観)に屈したとき
だ」
と。
著者は思い直す。
「本当は、やっぱり観光地をめぐりたい」
「持てる時間のすべてを使って、見られるものは見たい」
「そうして歩き回って疲れたとき、そのとき初めてどこかに
横たわればいい」
と。
著者は、だからといって、ネットで拾えるような観光地の風景や市場や大衆食堂のことは書かない。
旅を題材に文筆で食う者のプライドだろう。
本夕、読了。
旅の俳人とか漂泊の詩人とかと呼ばれた種田山頭火の評伝を読んだことがある。
行く方向も寝るところも定めず、施しを受けながら、ただ歩き、ただ座り、句を詠む旅。
世俗のはるか遠く上を行く旅。
が、旅をするのはヒト。
そして、ヒトはヒトだ。
山頭火は、捨てられていたコールドクリームの空きビンに化粧の香りをかぎ、オンナの肌を思う。
〝何の変哲もない〟とは、そういうことなのだと思う。
旅の自由とは、そういうことなのだと思う。
なんぞと知ったふうなことを言う自分自身が、〝何の変哲〟のなさをひねり出しているようで、イヤラシイ(^^;
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