『本願寺はなぜ東西に分裂したのか』を読む
神社。
信徒は氏子(うじこ)。
寺。
信徒は檀家(だんか)。
檀家と呼ばずに、門徒(もんと)と呼ぶ寺がある。
真宗と浄土真宗の寺。
北海道に多い寺だ。(注1)
京都駅で新幹線を降りたら、駅構内を横断して京都駅の表口に相当する中央口から出る。
5分も上ル(あがる:北上する)ことなく大きな寺の境内に行き着く。
そこが、真宗(大谷派)の本山、東本願寺(お東:おひがし)、門徒の寺。
そこで90度左に向きを変え、西に入ル(いる:進む)こと、せいぜい5分で、やはり大きな寺の境内に行き着く。
そこが、浄土真宗(本願寺派)の本山、西本願寺(お西:おにし)、門徒の寺。
こんな喫茶店で読み始め。
浄土真宗の宗祖は法然を師とする親鸞。
親鸞没後300年。
親鸞から数えて十代のちの十一世宗主の顕如(けんにょ)の頃、16世紀後半。
戦国時代。
門徒の武装力は、戦国大名並みにまで大きくなっている。
実際、顕如らは、織田信長に対して一歩も引かない抗争を10年以上も続けている。
本願寺が石山にあった時代で、本書の始まりもここから。(注2)
その後、
・雜賀(さいが:和歌山市)の鷺森(さぎのもり)
・和泉の貝塚(大阪府貝塚市)
・大坂中島天満(てんま:大阪市北区)
と移り(移らされ)、現在地の京都へ。
本願寺が東と西に分かれていく過程は、信長・秀吉・家康らが天下人を目指す争いと強く関係する。
裏付け資料の紹介が丹念で信頼性のある考証が続くのだが、私の知識ではついていけない(^^;
大変に読みづらい。
辞書必須。
近畿地方の地図必須。
本夕、読了。
京都の歴史は深い。
その深さの中で、建立が16世紀の終わりから17世紀初頭にかけての東本願寺・西本願寺は つい最近の寺院。
だから、観光者として京都を歩くヒトの ほとんどは東本願寺・西本願寺をスルーする。
しかし、実は まだ若く枯れ切っていないからこそ、20世紀、21世紀の現在の本願寺には大変に興味深いものがある。
それが整理された形で書かれるのは、300年後なのだろうが・・・
(注1)
寺の数だけでいうと、北海道で最も多いのは、真宗(東本願寺)。
次が曹洞宗。
その次が浄土真宗(西本願寺)で、その次に日連宗と続く。
北海道の寺は、入植者の出身地の菩提寺とリンクしているはず。
入植者の多くは東北・北陸の出。
そこでは、上記の宗派の信徒が多かったのだろう。
新十津川は奈良県からの入植者によって開かれている。
新十津川に、曹洞宗、日蓮宗の寺はない。
真宗3寺、浄土真宗1寺、そして真言宗の寺が2寺。
母村である奈良十津川村の歴史は面白そうだ。
伊達家の菩提寺は臨済宗。
しかし、伊達市内に臨済宗の寺はない。
これらについて、私なりの歴史観がないわけではないが、政治だとか思想だとか宗教だとかということを語るのは拙ブログの芸風ではない(^^;
(注2)
大阪城公園内。
大阪城天守から南へ5、6分。
1辺15センチばかりの石の角柱がたつ。
高さ1メートルちょっと。
この石柱の前に立ち止まる人は ごく少ない。
しかし、本願寺を語るのに ここは知っておかねばならない地。
石柱に彫られている文字は、『石山本願寺推定地』。
門徒らが信長との抗争の拠点としたところで、顕如の時代になって、ここから本願寺が東と西に分かれていく。
〝石山〟とは大阪市中央区の旧地名。
すでに江戸期には、その名称は消えていたようだ。
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