『真実の日本史』を読む
〝真実の〟とあるが、歴史のトピックス・裏話・こぼれ話。
こんな喫茶店で読み始め。
会津少年隊の白虎隊士らの自刃、会津家老の西郷頼母(さいごう たのも)の母・妻子をはじめとする150名近い婦女子の自害が歴史悲話として伝わる会津戦争の戦期は、1868(慶応4/明治元)年。
会津が戦ったのは、新政府軍(官軍)。
その終戦120年を機に、友好都市提携の申し入れが長州山口県の萩市から会津福島県の会津若松市になされている。
会津若松市が、それを断ったのは有名な話。(注1)
会津藩士が官軍に対抗するのは当然として、農工商は官軍の会津への侵攻をむしろ歓迎する向きがあったようだ。
会津藩の藩民への課税は、それほどに過酷だったということ。
しかも、長州軍は会津戦争の実戦には全く参加していない。
その戦後処理からの参加。
会津の者が長州の者に恨みを抱くのは、その長州が行った戦後処理。
例えば、遺骸が鳥獣に食われウジがわき腐敗が進むまで会津藩戦死者の埋葬を許さなかったと。(注2)
進学・就職が試験で決まるようになる大正に入るまで、会津出身者は冷や飯を食うことになる。
本夕、読了。
(注1)
会津若松市が萩市からの〝申し入れを拒否した〟と、強い語調で語られることが多いが、断りは礼節ある穏やかなものだったらしい。
萩市からの申し入れは'86年。
当時'76年から'88年まで福島県知事だったのは、松平勇雄。
松平勇雄の祖父が、会津戦争時の会津藩主の松平容保(まつだいら かたもり)。
120年程度の経過では、当該人と生活を共にした、つまり親・子・孫の3代の内の孫、あるいは子・孫は〝生きている〟。
(注2)
遺骸処理にあたった者らに総額で千両支払ったという記録がある。
千両を要するほどの遺骸の数と、処理困難なほどに遺骸の損壊・腐敗が進んでいたということだろう。
コメント
松平家に遺残していた家訓を大儀として籠城戦を選択、サムライが或いは持っていたであろう、いくさの美学は消え失せ、怨念が渦巻く会津市街戦の残忍で悲惨極まる戦史を、はたして現代人はなんと読むのでしょうね。
ただ当然のことながら会津派、長州派それぞれの切り口は全く異なります。
その後、勝ち組、負け組と峻別され、会津人の彷徨は青森から北海道にまで至り・・・。
主人公である容保は黙して語らず、あるのはもののふの諦観と敗者の美学なのか、はたまた無能な輩だったのか、これからも永く問われることでしょうね。
余計なことですが愚生は、WW2末期の日本陸軍参謀同様に、容保の組織のトップに足る思慮に脆さを抱いております。それはもしかして大方の日本人が持っているやもしれない、ある種の原理的命題なのかもしれませんね。
ちょっと硬すぎますか(笑)、アグネス号キャプテン & kwbt名人に'say hello'と。
投稿: 4 | 2016年7月 5日 (火) 21:21
与作さん、こんにちは
道義・大義・教義に命を差し出すことのできる人たちが少なからずいて、人は頭で考える生き物なのを強く感じさせられます。
竿先がピクピクっとするとギュンっとアワセを入れる、反射神経だけで昨日・今日・明日と生きているのが私。
考えていませんね。
いやいや、ギュンっとアワセを入れる反射神経も持ち合わせていません(^^;
平家・海軍・国際派と三つをひとくくりにするそうな。
一見インテリの文化人集団。
最初は華々しい。
けれど、最初だけ。
その対語は、源氏・陸軍・内務派。
前者に葵、後者に菊を付け足しても雰囲気が違いますね。
まァ、そんな二項対立でモノを考えられるほど単純にはこの世はできていません(^^;
田舎藩士が務まるような職ではない、自分はその職に就くに足る器ではないと京都守護職への就任を断っている容保ですが、葵の紋所と松平の家名を背負っている身、結局は松平家々訓に従って就任しています。
いっとき朝敵だったはずの長州が倒幕の中心藩となったりと、結果から振り返ると会津藩はウマイこと歴史の中で回っていません。
絵に描いたような不幸です。
〝歴史に学ぶ〟というフレーズがありますが、こういう歴史からは何を学べばいいのやら(^^;
投稿: KON-chan | 2016年7月 6日 (水) 17:56