『世界の宗教は人間に何を禁じてきたか』を読む
この四月発行の新しい本。
文庫本だが書き下ろし。
宗教雑学を寄せ集めた色もの本だろうとページをめくっていったが、いやいやどうして。
著者は歴史・宗教学の専門家。
素人相手に書かれた薄い本だが、しっかりとした構成の上に歴史・傍証が書かれている。
こんな喫茶店で、読み始め。
どんな霊的体験をしようが、どんな奇跡を起こそうが、悟りを得ようが、それだけでは教祖たり得ないし、宗教は開かれない。
その教えを信奉する者を得ることが必要。
その上で、世代から世代へ、この人からあの人へと伝えていく機能が必要。
それは「教える」・「教わる」ことなのだから、学校教育システムと全く同じ。
欧州の伝統大学の起源はカトリックの修道会の手によるものだし、綜芸種智院を開いたのは空海によるものといった歴史事例を持ち出すまでもなく、〝料理教室〟や〝子どもサッカー教室〟などと少しも違うシステムではない。
〝朝題目に夕念仏〟
この言葉を節操のないこと・定見のないことと負の意味で使うのが、現代人には一般的。
だが、日本における初期の仏教界では、各派の学僧たちが文字通りに〝朝題目に夕念仏〟を行い各宗派を学んでいたらしい。(注)
どの宗教でも、そのごく初期には他宗排斥なところはなかった。
詳論に入る前に、数行でその要約が掲げられている。
その編集方法が私向き。
大変に読みやすい。
私の釣りは、世代から世代へ、この人からあの人へと伝えられてこなかった、我流(^^;
〝朝言い訳に夕言い訳〟(^^;
本夕、読了。
(注)
日蓮宗で唱えるのが題目で、南無妙法蓮華経。
浄土宗で唱えるのが念仏で、南無阿弥陀仏。
天台宗では今でも、朝に題目、夕に念仏を唱えるという。
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