『山人たちの賦』を読む
昨年末12月23日の発行と新しい本だが、内容は'86年出版の復刻。
13の話が編まれていて、内11話が'86年出版時の本におさめられていたもの。
復刻にあたって書き下ろされた2話が追加されている。
その2話の内容も、時代は30年ほど前のこと。
こんな喫茶店で、読み始め。
30年前に書かれた12話は、表現が大変に若い。
著者、34、5歳の頃。
取材相手は全て自分よりひと回り・ふた回り・み回り年上。
だからだろう、山を生活の場とする人たちと比べ、自分の山経験の少なさ、山歩き技術乏しさを卑屈さを感じさせるほどに自身を低い所に置いて書いている。
30年を経た今現在の書き下ろし2話が枯れた表現になったかたというと、 いやいやいや。
変わらず、30年前と同じ。
若い。
いずれも、開発、建設、モノ作り、研究ルポルタージュ本と共通した言葉づかい。
副題が『山暮らしに人生を賭けた男たちのドラマ』。
この表現からして、筆づかいが分かろうというもの。
山で暮らしていても、冬には暖を取れ、呑もうと思えば毎夜でも酒が呑める。
山には山の大変さがあるだろうが、町にも町の大変さがある。
そして、町には町の住み良さがあるように、山には山の住み良さがある。
山暮らしをしているヒトは、山が好きで、山が住み良いから山にいるだけのこと。
別に、山での生活を強いられているわけでもない。
〝人生を賭けた〟というのは何ぞのことや。
みたいなことを言ってしまえば、身も蓋もない(^^;
〝山人たち〟と〝我々〟の違いは、山が〝生活・仕事の場〟か〝レクレーション・スポーツの場〟かということだろう。
〝生活・仕事〟としているのは、マタギ、岩茸(いわたけ)採り、イワナ養殖、ボッカ(歩荷:強力(ごうりき))・川魚釣り漁師等々。
いずれも、傾斜を自分の脚で登る必要のある職業。
私の傾斜登りは、レクレーション。
本夕、読了。
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