『砂時計の七不思議』を読む
文字で書かれれば、〝粉体(ふんたい)〟も、〝粒体(りゅうたい)〟も、その合成語である〝粉粒体(ふんりゅうたい)〟もイメージできる。
が、〝粉粒体〟という単語も〝粒体〟という単語も、意外なことに〝粉体〟という単語さえも広辞苑には採用されていない。
砂時計の砂は、時の刻み始めから終わりまで、すなわち、
・時の刻み始めの、上に砂がたくさんある状態
から、
・時の刻み終りの、上に砂がなくなる瞬間
に至るまで、くびれを通過する砂の(流量)速度が変わらない。
上に砂がたくさんあってくびれを通過する砂にかかる圧力が高いときも、砂が少なくなって圧力が低いときも、くびれを通過する砂の様子が変わらないというのが不思議。(注1)
そういう挙動をする〝粉体〟・〝粒体〟・〝粉粒体〟の話。
きなこ・龍角散などは〝粉体〟で、砂・米などは〝粒体〟だとは一概には言えない。
〝粉〟と〝粒〟の境い目はあいまいで、〝粉〟のほうが〝粒〟より小さいとは言えるが、〝粉〟と〝粒〟を分ける定義はなく、扱う立場次第。
無量大数の天体を〝粒〟として扱うことで、大宇宙の挙動・現象を説明する立場もある。
本記事中では面倒なことを言わずに、話題の対象を〝粒(体)〟として統一した。
こんな喫茶店で、読み始め。
〝粒〟は言うまでもなく個体。
その〝粒〟がたくさん集まると、液体や気体に見られる〝沸騰〟や〝対流〟や〝浮力〟とよく似た挙動を示す(示させることができる)。
しかし、現象がよく似ているというだけで物理的には全然別モノ。(注2)
このたくさん集まるというのが、〝粒体〟に秩序性を与えると同時に、扱いに困難さを与える。
流体力学とか熱力学(統計力学)は、〝物質〟を扱うのではなく〝現象〟を扱う学問で、著者が言うには物理学の世界では本流とはならず二流扱いなのだとか。
微視的に微視的にと進む〝物質〟を扱う立場の物理学は『理解』に到達できる。
流体力学や熱力学のような、全体・集合としての〝現象〟を扱う立場の物理学は(今のところ)『理解』に到達できないというのが、その理由。
コンピュータシミュレーション上はいくらでも〝現象〟に近付けるのに、はたしてそのシミュレーションモデルが正しいのか、他にも現象に似るモデルを構築できるのではないかは、(今のところ)分かっていないのだ、と。
てなことが書かれているのだが、何せ読んでいるのが私。
実のところ、字面(じづら)をながめているだけで、私自身は自分で書いていて何も分っていない(^^;
著者は物理学者。
生物学や経済学や気象予報の困難さと、〝粒〟の集まりを扱う困難さは似ていて、それは考える対象が〝物質〟ではなく〝現象〟だからなのだと言う。
シマウマの縞と砂浜の風紋は似て非。
しかし、見えている〝現象〟は同じ。
もしかしたら、シマウマの縞も風紋も同じ原理が作用してでき上がっているかも。(注3)
更には、〝現象〟を〝理解〟するということは、というところにまで話は進む。
砂時計で始まる〝粒〟の話が我々の意識世界にまで及ぶのは、物理学者としての著者の力のレベルの高さ。
砂山の砂に腹這ひ
初恋の
いたみを遠くおもひ出づる日
(『一握の砂』より)
砂山は〝粒〟の集合。
〝粒〟は、人に遠き日の初恋の痛みさえ思い起こさせるようだ・・・
本夕、読了。
(注1)
実はそうではなく、上に砂がたくさんあっても少なくても圧力は変わらない、ということが本書内で示される。
だから、高い山に掘られたトンネルも低い山に掘られたトンネルも壁のコンクリートの厚さは同じですむことになる。
そこが、気体や液体と違うところ。
(注2)
〝物理的には全然別モノ〟と書いたのは、私の知ったかぶり(^^;
別モノなのかそうでないのかさえ、本当のところは分かっていない。
温められることで軽くなって浮き、冷えて重くなって沈むという誰でもその原理を知っているつもりの〝対流〟。
この〝対流〟という現象自体が、現在の物理学ではいまだにきちんと説明できないのだとか。
(注3)
そうである可能性は高い。
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