『神が愛した天才数学者たち』を読む
(-1)×(-1)=1
は、どのように教わったっけ。
「そういう約束になっている」といった程度に教えられ、次の単元に進んだのではないか・・・
負の数の加減乗除を習うのは、中学1年生の1学期。
以降の数学に、私はついていけてない(^^;(注)
紀元前6世紀の古代ギリシャのタレスから19世紀フランスのガロアまでの、天才数学者たちの伝記。
こんな喫茶店で読み始め。
〝努力〟とか〝繰り返し〟とか〝訓練〟という言葉を持たない人たちがいる。
天才。
天才のひらめきを我々が知ろうとするのはできない相談で、多分 天才自身でさえもそれを説明できないだろうと思う。
彼らがひらめくのは、神の知恵が降りてきたからとしか言いようがない。
本書も天才たちがひらめきを得た理由や経緯については述べられていない。
書かれているのは、その人生、周囲の世界。
数学に限らず、芸術・スポーツの分野にも天才がいるが、その天才性を発揮できるのは、その人が確かに天才であるというだけではダメ。
例えば、天才バイオリニストとか天才ピアニストと呼ばれる人がいる。
ところが、バイオリンがこの世に現れるのは16世紀、ピアノに至っては18世紀。
天才バイオリニストあるいは天才ピアニストとなる資質を持ってはいても、その人の誕生が15世紀だったら、その天才を示すことができない。
ならば、それら天才の資質を持った者たちは、違う楽器で天才性を示し得たかというと、ンなことにはならないだろう(と思う)。
生まれた場所やその時期が、天才の出現を決定する。
天才とは、人類に平等な確率で現れるのではなく、偏在的・局所的に現れる恐ろしく小さく不公平な確率にみえる。
確かに天才数学者たちは、神に愛されている。
それも、気まぐれな愛に。
アーベルとガロアの論文が、送り先で机の引き出しに放り込まれたままだったり、紛失されたり。
評価を与えられないまま若くして死んだ、この二人の天才が悲しい。
ツッカエ・ツッカエしながらも、本夕、読了。
で、あとがきまで読んで分かったのだが、本書は中学生向けの学習雑誌に連載されていたものを一書としたものなんだと(^^;
負×負は正 を習うのは中学1年生の1学期。
〝以降の数学に、私はついていけてない〟と初めのほうで書いた。
本書を読むのに、ツッカエ・ツッカエだったのもムベなるかな(^^;
(注)
湯川秀樹のエッセーに、『負数×負数が正数となる理由が分かったのは、研究生活に入ってからだった』と書いてあるのを、随分あとになってから読んだ。
湯川秀樹にして、そう。
私が 負数×負数が正数 となる理由をいまだ知らないのは決して恥ずべきことではない。
と、開き直るようなことではないが(^^;
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