『終わり方の美学』を読む
副題は『戦後ニッポン論考集』。
三島由紀夫が雑誌や新聞に書いた短文、あるいは小説やエッセー中の一節を編じて一書としたもの。
本書の単行本の出版は、三島の自刃から40年が過ぎた’12年。
だから、掲載文の選択、書の構成は三島によるものではない。
こんな喫茶店で読み始め。
『終わり方の美学』とか『戦後ニッポン論考集』とか、彼はこういう言葉の使い方を絶対にしない人。
標題・副題ともに彼によるものではない。
編者は徳間書店の編集者。
〝終活〟という言葉が一般用語化されてきた頃。
それに乗じての表題・副題の名付けだろう。
文章の選択や並べ方に何かの思想や方針があるようには見えない。
一冊の成書にするため、都合のいい長さのものを選んで綴じただけなのだろう、と。
三島の生涯は45年と短いけれど、警句に値するものは山ほど書いているから、編集の仕事に苦労はなかったものと思う。
編者が誰であれ、中身は全て三島の文章。
だから、その内容や三島個人のことについて反応すべきだが、私に彼のことををナニやらカニやら言えるような持ち合せはない(^^;
なので、以下、『終わり方の美学』という表題だけへの反応(^^;
釣師の、その日の〝終わり方〟は2種類。
〝満足して竿を納める〟、または〝納得して竿を納める〟。
これに〝不満足ながら竿を納める〟を加えるヒトもいるが、それは人生経験があと10年必要なヒト。
〝不満足ながら竿を納める〟なんて気分は、必ずなくなる感情。
〝満足〟でその日の釣りが終えられたら、それはもう何も言うことはない。
掛からない日。
それは腹の減ったサカナがいなかっただけのことで納得できること。
他の人は釣れたのに、自分だけが掛からなかった日。
ンな日でも、不満足で終わらない。
自分のウデの未熟さを知り、だから掛からなかったと納得する。
そして考え、工夫し、精進する気持ちを抱くこと。
って、私はしないけれど(^^;
上記の最後に、
本日、憂国忌、三島由紀夫の終わりの日。
という一行を添えて締めくくり、11月25日に記事としてアップする。
みたいなことをするのは、私の『終わり方の美学』ではない(^^;
読了の今日、記事掲載(^^;
コメント
あの事件から40年ですか。
平和の時代に衝撃的でしたね。
投稿: きーさん | 2015年11月19日 (木) 21:05
訂正、45年でしたね。
投稿: きーさん | 2015年11月19日 (木) 21:12
きーさん、こんにちは
45年前、45歳だったんですね。
彼にとっては、45歳でも遅すぎたのかもしれません。
彼の作品をいくつか読みました。
勤勉で根気強い天才で、作品もその通り、抜けなく重複なくきれいに積み上がっています。
彼の人生そのものが、そうですね。
50歳、60歳、70歳でというわけにはいかなかったのが分ります。
投稿: KON-chan | 2015年11月19日 (木) 23:49