『誤解だらけの日本美術』を読む
奈良・鎌倉の大仏は別格として、京都広隆寺の弥勒菩薩像と奈良興福寺の阿修羅像は著名さの点でいずれ劣らぬトップの仏像だろう。
いま見る弥勒菩薩像は、長い年月を経なければ得られない木の質感が歴史的な深みを我々に与える(ような気がする)。
阿修羅像も同様、長い時間の質感とでもいうべきものを我々に感じさせる(ような気がする)。
それは、〝枯れ〟・〝熟〟・〝風情〟といった肯定的印象を与える(ような気がする)。
しかし、完成当初の弥勒菩薩像は金箔をまとっていたという証拠があるそうだ。
また、麻布にウルシを塗り上げて作られた阿修羅像は、彩色が施され、部分的に金箔が押されていたようだ。
弥勒菩薩像の制作当初の姿を知るのは、原理的には簡単。
レプリカに金箔を貼ればよい(と思う)。
色が塗られていた当時の阿修羅像を知るのは非常に難しい。
ところで、金箔を貼られた弥勒菩薩像、彩色された阿修羅像を前にした時、現在の我々はどのように感じるのだろう。
副題が、『デジタル復元が解き明かす「わびさび」』。
【画像:上】
こんな喫茶店で読み始め。
要するに、古い絵画・建築物・像などのデジタル画像にレタッチソフトで彩色して時計の針を逆転させようという話。
対象は、俵屋宗達の風神雷神図、キトラ古墳壁画、銀閣寺、興福寺の阿修羅像。
【画像:下】
この春、大佛鐵道跡を歩いた際、興福寺国宝館にも足を運んだ。
いま我々が見るのは、切手に描かれたような風合いの阿修羅像。
著者が〝デジタル復元した〟という阿修羅像の一部は、本書の帯でうかがえる。
実像にわずかに残っている顔料から色を決める、という自然な作業を進めるかと思いきや・・・
〝私はそう解釈して、心地いい色合いを探った〟みたいな根拠のない彩色も多い。
『誤解だらけの日本美術』とはいうけれど、著者には〝誤解がない〟ことの証明は希薄だ(^^;
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