『悲劇の発動機「誉」』を読む
帝国時代の日本には幾社も航空機メーカーがあったが、代表格は三菱と中島飛行機(以下、中島と称す)。
中島は敗戦後に10以上の会社に解体され、現在の富士重工はその内の1社。
富士重工の企業規模の大きさを見れば、解体前の中島がいかに大きな企業だったかが分かる。
実際、人員規模・製造量において、中島は東洋一の航空機メーカーだった。
例えば、帝国陸軍の『隼』には『ハ25』、帝国海軍の『零戦』には『栄』という1000馬力級エンジンが搭載されていたが、これは中島の設計・製造。
戦争終期の帝国陸軍の『疾風』のエンジンは『ハ45』、帝国海軍の『紫電改』のエンジンは『誉』で、2000馬力級。
これも、中島の設計・製造。(注1)
こんな喫茶店で読み始め。
書かれているのは、2000馬力級エンジンの『誉』のこと。
欧米と帝国とでは、技術の歴史的進捗に大きな差があった。
必然、帝国のエンジンは欧米の先進メーカーから製造権を買い、そのコピー、せいぜいモデファイ。
欧米の技術に乗っかってエンジンを作っていた。
乳児の言葉の獲得は、ママの言葉のコピーから。
ピタゴラスの定理は2500年前の知識。
その上に乗っかった科学技術のもとに、我々は生きている。
それらと同じこと。
コピーの発展型はイイトコ取り。
イイトコ取りは、ヒトの進化の基本だ。
『誉』は、英・米の新鋭エンジンで採用している技術のイイトコ取り。
イイトコ取りだから、『誉』の基本設計が世界水準を超えていたのは客観的事実。
その『誉』の設計思想の先進性、試作品完成までの開発スピードの速さ、試作品のベンチテストの優秀さ、そしてそのエンジン開発の主務が大学を出てわずか2年の若者に託されていたことが、当時の関係者への取材、資料に基づいて書かれる。
試作品を作り上げ、その性能測定値が世界水準にあったのは事実なのだが、しかし、『誉』の量産はうまくいかない。
著者はその理由を、
・中島の社風
・日本と欧米の工業生産思想の違い
・燃料、潤滑油のスペック低下(注2)
・製造現場への軍の関与
・熟練工員の徴兵(注3)
に求めてゆく。
著者自身、ジェットエンジンの設計の現場に長いこと席をおいた人で、知識は豊かで確か。
ああでなかったらこうでなかったら『誉』は世界水準から抜きん出たエンジンだった、みたいなことに話をもっていくわけだから、比較、原因の原因、その更なる原因みたいなところに話が広がる。
だから、取材相手・参考とした資料の数は多い。
本書内に登場する人物の一人が、
「試行錯誤を重ねるような仕事は頭脳明晰な人には不向きであり、多少鈍いほうがよい」
と言う。
この人の言に限らず、〝試行錯誤〟という言葉は本書内に何度も出る。
エンジンの開発(だけではないだろうが)とは〝試行錯誤〟の積み重ねであるようだ。
先に書いたように、〝開発の主務が大学を出てわずか2年の若者〟。
大変に優秀な人だったようで、のちにプリンス・日産でGT-Rのエンジン開発にも携わり日産の専務にまで昇っている。
優秀な人が、欧米の新鋭エンジンのイイトコ取りをして設計しているのだから、それが悪かろうはずがない。
そのイイトコは、欧米において〝試行錯誤〟を積み重ねて獲得した産物。
試作品は作れても、量産できる設計となっていないので、量産の製造現場では設計で求める形状・精度でエンジンを作り上げることができない。
加えて、調整・整備ができる構造になっていないので、運用の現場(それはすなわち戦場)では稼動率が上がらない。
若者が設計したエンジンは、オイルを吹く・シリンダーが過熱する・軸受が焼き付く等々。
その対策を、設計者ではなくフィールドエンジニアが担うことになる。
ここまで読み進めてきて、
「試行錯誤を重ねるような仕事は頭脳明晰な人には不向きであり、多少鈍いほうがよい」
の〝多少鈍い〟とは、実は最上級の謙遜表現であることが分かる。
頭脳明晰な設計者は、オイルを吹く・シリンダーが過熱する・軸受が焼き付く等々の対応には手を出さず(出せず)、〝多少鈍い〟フィールドエンジニアたちや前線の戦場整備員たちの〝試行錯誤〟に対策が投げられる。
今の世にも、聞こえてくる。
「OOは現場を知らない」
このOOには、例えば〝上の人間〟とか〝霞が関〟とか〝本社〟とかあらゆる言葉が入る(^^;
「その場その時の判断は現場の△△に任せる」
この△△には、例えば〝教師〟とか〝指揮官〟とか〝車掌〟とかあらゆる言葉が入る(^^;
とかとか。
逆に、現場の理解者のつもりになって、「デスクにへばり付いていてはダメだ。会議室を出て現場を見ろ」
「◇◇現場は雑事に追われて大変。本来業務をこなす時間が取れない。何とかすべし」
この◇◇には、例えば〝介護〟とか〝教育〟とか〝医療〟とかあらゆる言葉が入る(^^;
とかとか(^^;
そうだ。
OOや△△や◇◇にはあらゆる言葉が入るわけで、どんな世界でも同じ。
だからなのだ、あらゆる人が、ンなところに簡単に言い訳を求めたり、理解者ぶったりする(^^;
日米開戦直前。
中島のエンジン製造工場には米国のエンジンメーカーの技術者が駐在し、工作機械の配置といったごく基本レベルのところから製造指導をしていたという。
それが、帝国のエンジン製造現場だった。
『誉』
星型空冷18気筒
総排気量35.8リッター
質量810キログラム
ああでなかったらこうでなかったら、2000馬力を出したエンジンだった、らしい・・・
長い記事になった。
本書も長い、600ページ近い大作。
本夕、読了。
(注1)
帝国陸海軍で呼称こそ違うが、『ハ25』と『栄』は同じエンジン。
同様に、『ハ45』と『誉』も同じエンジン。
帝国における陸海軍のソリの合わなさは滑稽なほどで、’40(昭和15)年頃までの軍用機のエンジン出力を上げる操作は、陸軍ではスロットルレバーを引き、海軍では押す。
中島では、軍の指示で、陸海軍向けの製造工場を道を隔てて別棟として建てさせられている。
なお、本記事では『ハ45』・『誉』とを区別せずに、『誉』に統一した。
(注2)
『誉』はオクタン価100のガソリンを使用することで設計された。
このオクタン価100ガソリンの製造技術を帝国ではついに得ることができず、米国から輸入、備蓄していた。
高スペック潤滑油も同様、米国からの輸入。
(注3)
製造現場から熟練工員が徴兵で抜かれていったというのは、米国も同じ。
しかも、戦時、工場内の非熟練勤労動員者の割合は、帝国より米国のほうが高い。
かつ、女子勤労動員者の割合も米国のほうが高かったということが、『誉』の量産不調の言い訳にならないところ。
コメント
大変なご無沙汰をしております。
星形エンジンが日本の航空界から完全に姿を消して結構な年数が過ぎ去りました。
35年位前の調布飛行場では、まだアジア航測のデハビランド・ビーバーが重い垂直カメラを搭載し、星形エンジン独特の迫力ある爆音をあげていたと記憶しています。それでも9気筒の450馬力ですので、『誉』とは全く比較にはなりませんネ。いかにすごいエンジンだったか、KON-chanの記事で明解です。それにしても、KON-chanの記事を読み、星形エンジンを懐かしむなんぞ、年齢をあまりにも取り過ぎました。それも35年位前の出来事を昨日のように新鮮に思えてしまうのにも驚きです。
驚きついでに、中学の時に『飛べ!フェニックス』という映画をみて感動を覚えました。その後、この歳になるまでこの古すぎる映画を何度も繰り返し見ています。砂漠に墜落後、組み上げて整備した"星形エンジン"を最後の最後の起爆材でかろうじてエンジンを作動させ、砂漠を脱出するシーンはなかなかでした。撮影中に、改造した撮影用の実機が墜落し殉職者が出ている作品だけに、古きよき時代の飛行機好きにはたまらない作品となっています。きっと、飛行機好きのKON-chanのことなのでご覧になっている映画と思います。
今後も、たまにではありますが"KON-chanの記事"を読ませていただきます。Kuさんをはじめ、室蘭の皆様にもよろしくお伝えください。それにしても、昔からではありますが、Kuさんの遠征の大胆さは半端ではありませんネ~。またぁ!
投稿: パイパー函館 | 2015年8月 7日 (金) 01:17
パイパー函館さん、こんにちは
ご無沙汰を重ねておりました。
お久しぶりです。
当時、同クラスの米国の星型エンジンは18気筒で40リッターを超えていましたので、『誉』のコンパクトさが分ります。
小さいのに出力が大きいので、放熱に気を使わなければなりません。
しかし、放熱フィンをうまく作れなくて苦労しています。
『飛べ!フェニックス』は私も見ています。
飛行機の設計技師だと自称する人が、実は模型飛行機の設計者だったというオチがついてましたね。
飛行の原理は、模型も実機も同じですから。
Kuさんは、変わらずすごいですね。
私も変わらず、ヤンチャしています(^^;
投稿: KON-chan | 2015年8月 7日 (金) 07:12