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2016年6月

2016年6月26日 (日)

『真実の日本史』を読む

〝真実の〟とあるが、歴史のトピックス・裏話・こぼれ話。

Historyこんな喫茶店で読み始め。

会津少年隊の白虎隊士らの自刃、会津家老の西郷頼母(さいごう たのも)の母・妻子をはじめとする150名近い婦女子の自害が歴史悲話として伝わる会津戦争の戦期は、1868(慶応4/明治元)年。
会津が戦ったのは、新政府軍(官軍)。
その終戦120年を機に、友好都市提携の申し入れが長州山口県の萩市から会津福島県の会津若松市になされている。
会津若松市が、それを断ったのは有名な話。(注1)

会津藩士が官軍に対抗するのは当然として、農工商は官軍の会津への侵攻をむしろ歓迎する向きがあったようだ。
会津藩の藩民への課税は、それほどに過酷だったということ。

しかも、長州軍は会津戦争の実戦には全く参加していない。
その戦後処理からの参加。

会津の者が長州の者に恨みを抱くのは、その長州が行った戦後処理。
例えば、遺骸が鳥獣に食われウジがわき腐敗が進むまで会津藩戦死者の埋葬を許さなかったと。(注2)
進学・就職が試験で決まるようになる大正に入るまで、会津出身者は冷や飯を食うことになる。

本夕、読了。

(注1)
会津若松市が萩市からの〝申し入れを拒否した〟と、強い語調で語られることが多いが、断りは礼節ある穏やかなものだったらしい。
萩市からの申し入れは'86年。
当時'76年から'88年まで福島県知事だったのは、松平勇雄。
松平勇雄の祖父が、会津戦争時の会津藩主の松平容保(まつだいら かたもり)。
120年程度の経過では、当該人と生活を共にした、つまり親・子・孫の3代の内の孫、あるいは子・孫は〝生きている〟。

(注2)
遺骸処理にあたった者らに総額で千両支払ったという記録がある。
千両を要するほどの遺骸の数と、処理困難なほどに遺骸の損壊・腐敗が進んでいたということだろう。

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2016年6月20日 (月)

『ソフトウェアの法則』を読む

2次方程式の2次・1次の係数と定数の三つの値を入力して解を出力させる、初学者演習用の10行ほどのプログラム。
それが私の初めて組んだFORTRANプログラムで、HITAC10Ⅱで走らせた。(注)
プログラマとしての適性が私にあるはずがない。
これでおしまい(^^;

著者は、ソフトウエア開発者として30年以上東芝に勤めた人。
米国のIBM・マイクロソフトへ長期派遣されての実務経験も豊富。
東芝を定年退職後は大学で教え、専門書も出している。

その経歴と『ソフトウエアの法則』というタイトルから連想されるような、「プログラム設計要領」とか「プログラミング技法」といった技術的な内容が本書に書かれているわけではない。
書かれているのは、職業として企業プログラマを選択した人の生活、職場の風景。

初版が前世紀の'95年。
FORTRANプログラマはどこへ行ったやら。
プログラマと言えばCOBOLプログラマとCプログラマのことをいうようになり、その開発現場もタイなどに移っていた。
パソコンのOSではWindows3.1が成功し、Windows95が販売された年。
本書内で使われている用語や描かれている世界は懐かしさを感じさせるほどに古い。

Softwareこんな飯屋で読み始め。

全体は大きく、
 ・コンピュータ一般
 ・ソフトウエア技術
 ・設計技術
の三つに分かれ、それぞれがさらに6及び7つの小節で組み立てられている。
各小節ごとの構成はよく練られていて、何気ない話が〝ソフトウエア開発〟に移り、最後のオチへと流れる起承転結の展開が見事。

このオチは、ソフトウエア開発の現場を知る者ゆえの発想。
職業プログラマなら、深く感じ入るオチだろうと思う。
ではあるが、どれも一般性があり、決して楽屋落ち・仲間受けに終わっていない。
プログラマの世界を知らない私だが、このオチのデキの良さは分かる(つもり)(^o^)

例えば、こんなオチ。
『少し先のことを正確に見込むことを「予想」という。 これは難しい。
ずっと先のことを大胆に見込むことを「予言」という。 これは容易である』

つまり、海に出てアンカーを入れる。
同乗者に、
「ここで40センチオーバーのマガレイが掛かる」と言うのは難しいが、
「この海には50センチオーバーのマガレイがいる。 掛けた人もいる」と言うことは容易なのと同じ(^^;;;

本夕、読了。

(注)
HITAC10Ⅱ(ハイタック テン ツー)は日立のベストセラーミニコン。
16bit/word。
メモリは磁気コア64KB。
幅1インチに8穴を開閉孔した紙テープで入力する。

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2016年6月19日 (日)

言い訳、見つからず(^^;

4時30分、出航。

夕刻までは陽射しがあって、風穏やかの予報だった。
今朝になって天気予報が変わり、結局、一日中陽射しがなく、風も付いた。

160619【画像:上】
今日の出竿は、こんな風景の見える海域。

沖根。

見えているのはSEA・GAIA

【画像:下】
こんな風景の見える海域にも。
(画像は終日(ひねもす)船長さん撮影)

12時30分、沖上がり。

世界気象機関(WMO)は国連の専門機関。
ここが主要国の気象予報の評価をしている。
日本の気象庁への評価はあまり良くなく、EU・米・韓の下。

天気が夕べの予報通りに経過したとしても、何かが変わったわけではないだろう。
でないと、EU・米・韓の釣師たちが、日本の釣師たちよりも釣果が上ということになる。
ンなことはなかろう、って。

言い訳、見つからず(^^;
本日、ひとアタリもなし(^^;

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2016年6月18日 (土)

タモサイズと抜き上げサイズ

8時40分、出航。

沖根まで航海したが、風が残っていて船がとまらない。
加えて、きついウネリ。
我が艇の装備力では、釣りにならない。

反航した。

160618_2【画像:上】
今日の出竿は、こんな風景の見える海域。

バケを泳がせると、タモサイズのアブラコ。
リリース。
リリース。
リリース。
リリース。
と、4回。

【画像:下】
モゾっとしたアタリののちに、竿先が海面に刺さった。

ヒラメがタモに入ったと思ったが、タカノハ。

再び、タカノハ。
今度は小さい。
タモを構えず抜き上げた。

あと3日で夏至。
空高いところから陽射し。
水面からの照り返しも鋭い。

クチビルが日焼け。
カユイ(^^;

12時30分、沖上がり。

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2016年6月13日 (月)

『肖像画の中の科学者』を読む

フックの法則(ばねばかりの原理)のフックは、英国の大学者。
同じ英国のニュートンはフックより7歳年下の同時代人。
なお、ニュートンはフックの死後24年生きている。

フックが万有引力の存在に気付いていたのは確かなようで、それもニュートンより早い。
ただし、その力の大きさが距離の自乗に反比例することを定式化(逆自乗の法則)したのはニュートン。
だが、フックは万有引力の法則をニュートンより先に発見したと強く主張し続けていたらしい。

フックの肖像画は失われている。
それはニュートンの意図によるもので、フックが万有引力の第一発見者は自分であると主張していたことにニュートンがひどく嫌悪していたからだという説がある。

天才性ではニュートンがフックをはるかに上回ることは誰もが認めるところだが、天才とてヒトの子、そしてヒトは感情の動物。
万有引力の法則の確立者の称号に一点の非もなきようとするため、頭脳活動といえない幼稚な行動を天才ニュートンがしたのかもしれないと思うと、ヒトの心の浅さを感じ、同時に深さを感じる。

Scientists_2こんな喫茶店で読み始め。

キャヴェンディッシュは やはり英国のヒトで、ニュートンの死後3年して生まれている。
名門貴族の長男で大富豪のキャヴェンディッシュだが、彼の肖像画は彩色されていない。
キャヴェンディッシュの肖像画は、本人の知らぬ間に密かにスケッチされたもの。

人見知りが強い上にヒトとしゃべることが苦手な彼は、肖像画を描かせるために長時間 絵師の前に立つということができなかったようだ。
そういったこと以前に、肖像画を描かせるということ自体に彼がこれっぽっちの興味も示していない。
着るもの金銭など世俗的事項には何の興味も示さず、のみならず、科学者としての名誉を獲得することにも全く興味を示していない。

ニュートンやフックがそうだったように、第一発見者の栄誉を得るために科学者らは競う。
キャヴェンディッシュはそれからは、遠い人物。

わずかな論文を発表し、それだけでその天才は世に認められていたが、私邸内の実験室にこもって得られた成果のほとんどは生前に世に出ることはなかった。
オームの法則(電圧は電流と抵抗の積に比例する)は、オームがそれを発表する半世紀も前にキャヴェンディッシュによって発見されていた。

キャヴェンディッシュのように、でかいサカナを掛けてもジッと黙り込むってのはカッコいい。
私の場合は、ジッと黙り込むしかない。
そりゃァそうだ。
でかいサカナが掛からない(^^;

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2016年6月11日 (土)

サカナ釣りに必要なのはウデ

5時、出航。

160611【画像:上】
今日の出竿は、こんな風景の見える海域。

モヤの向こうに羊蹄山。

この火曜日、この画像で見える火口の右端、あの最高点1898メートルに私は立った(^o^)

山登りに必要なのは脚。

今やっているのはサカナ釣り。
サカナ釣りに必要なのはウデ。

13時、沖上がり。

【画像:下】
船から降りて、太平洋を望むイタンキの丘へ。
私の定点観測地。

この丘にエゾカンゾウの咲く頃がヒラメの季節。
すでにヒラメの季節だ。

が、振ったバケに来たのはアブラコとトウベツカジカ(^^;

サカナ釣りに必要なウデがなかった(^^;

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2016年6月 7日 (火)

羊蹄を歩く 1

昨年の私の羊蹄山の登り始めは6月20日。
その日は、雪渓を踏んで高度を上げた。
登り納めは、10月7日。
すでに、8合目から上は雪山だった。

9月の末から5月いっぱいは、雪山装備を必要とする山。
つまり、年12ヶ月の内の8ヶ月が冬の山だ。
残りの4ヶ月で、春・夏・秋が進行する。
今日 登って見た花・虫が、1週間後に再び登った時には、もう咲く花・飛ぶ虫・這う虫が変わる。

Mtyohtei【画像:1枚目】
先の日曜日、黄金沖から見た羊蹄山。

平面的にも立面的にも、安定した天候を得られない背の高い独立峰。
山のこちら側では雲が湧いて濃いガス、しかし、火口縁を回って向こう側に出ると青空ということはしばしば。
山頂は雲の上で快晴、6合目から下は土砂降りということも。

難しい山ではない。
ただ、長い。
とても長い。

でも、あの頂に立ちたい・・・

160607【画像:2枚目】
ということで、羊蹄山へ。

真狩コース。
上の画像の真ん中を登り詰め、火口右端の最高点を目指す。

9合目から火口縁に上がるまでは、雪渓を踏んで高度を上げる。

【画像:3枚目】
雪の割れ目に花。

そうだ。
この山では、生きることを急ぐ必要がある。
植物も動物も虫も1年を4ヶ月で生き、8ヶ月眠らなくてはならない。

【画像:4枚目】
火口縁を時計回りに歩いて最高点を目指すも、気象観測所跡付近でハンガーノック(シャリバテ)(^^;(注)

ンなわけで、観測所跡でザックをおろし、食事休憩してから火口歩きを再開した。

最高点にて。

山頂気温は、登山口より13℃低い予報。
1500メートルまで高度をあげたところで、空気が変わり、ほんのいっとき冷えた。

が、その後、気温が上がるいっぽう。
加えて、無風。
1800メートルを超える高所にいるのに暑い、暑い。

登りの給水は100CC。
以降で、1000CC飲んだ。

山歩き時間12時間00分。
29874歩。

全給水量は、
 ・1100CC

気象観測所跡で、
 ・キッコーマン アーモンドファーム バナナ 200CC
 ・コープ パスタソース カルボナーラ 1袋
 ・札幌パリ アルメット 1/2個

(注)
早い話が腹ペコ状態。

Gpslog_6








登りの始めの方で、トラッキングがうまくいっていない。
原因不明。

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2016年6月 5日 (日)

歯型も得られず(^^;

5時、出航。

港内にも白波。
当然、港外も白波。

それでも風に向かって航海。

昨日得た4つの歯型は、ヒラメ。
仕掛けがまずかった、1本鈎(^^;

で、夕べ、孫鈎付き仕掛けを2組こしらえた。

160606_2【画像:上】
今日の出竿は、こんな風景の見える海域。

正面、昭和新山。
その奥、雪の山は羊蹄山。

画像は終日(ひねもす)船長さんが撮ってくれたもの。
淋しそうな後姿はKON-chan号(^^;

ヒラメを掛けるより、あの山に登るほうがはるかに簡単。
魚釣りにはウデが必要だが、山歩きにウデは不必要だから。

やがて、ベタナギになった。

【画像:下】
やっていることが、間違っているのだと思う。
ヒラメの歯型も得られず(^^;

孫鈎付き仕掛けにチビソイが掛かった。

13時30分、沖上がり。

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2016年6月 4日 (土)

得たのは歯型のみ(^^;

朝早いうちは雨。
それが上がった11時30分、出航。

作業船に曳航されて北西に航行するクレーン船を、伊達ちょっと手前で追い越す。
その後それほどせずうちに、左前方が真っ暗になり土砂降り。
風はないのだが、出竿予定海域に向かうどころの話ではない。
何も見えない。
180度回頭し、大黒島沖まで航海したところで雨雲から抜けた。

160604【画像:上】
14時30分、再航海。

今日の出竿はこんな風景の見える海域。

頭に雲をかぶっているのは有珠山。

【画像:下】
スゴイ雨だった。
この海域に川水が赤い土を流してきた。

下から、タカノハ・マガレイ・ソウハチ。
その上に、ヒラメを並べたかったが、得たのは歯型のみ(^^;

16時、沖上がり。

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2016年6月 3日 (金)

『怖いクラシック』を読む

クラシック音楽史、クラシック音楽のトピックス。
本書内で扱われるのは、ショパンとかベートーヴェンといったクラッシック界の有名人。

Classic_2こんな喫茶店で読み始め。

いわゆるクラシック音楽は、聞いて心地よいものでオペラは喜劇に決まっていたそうな。
モーツアルト作曲の、プレイボーイの貴族が地獄に落ちる結末のオペラ『ドン・ジョバンニ』が、〝怖い〟音楽の最初というのが、著者の見解。

モーツアルトは18世紀後半の人。
もっとも作曲はモーツアルトだが、その台本はシナリオライターの手による。

録音も放送もない時代だ。
全ての音楽はライブ。
劇場に聴衆をよび、興行として成り立たせねばならない。
だから、〝怖い〟話をオペラとして成功させたショービジネスの才にたけた興行者こそが、一番音楽を知っていたのかもしれない。

クラシック音楽史で、モーツアルトに続くのはベートーヴェン。
ベートーヴェンの『田園』の嵐の楽章を、著者は〝怖い〟音楽だと書く。

そして、ベートーヴェンから、クラシックが難しい音楽へとなってゆく。

ところで、タイトルの〝怖い〟とは、「父」・「自然」・「狂気」・「死」・「神」・「孤独」・「戦争」・「国家権力」のこと。
この流れでいくと、「貧困」も〝怖い〟に含まれるように思うが、それは取り上げられていない。
まァ確かに、『貧困のクラシック』というものは、あり得ない・・・

ベートーヴェンに続くショパン・ブラームス・チャイコフスキーは19世紀の人。

人は何も100年を単位に変わるわけでも、キリスト生誕年をスタートとする紀元が人の歴史のスタートであるわけでもない。
しかし、クラシック音楽史においては、19世紀と20世紀で〝怖い〟音楽が変わる。
19世紀までは、〝怖い〟ものがあって、それを音楽で表現する。
それが20世紀になった途端に、具体的タイトルのない、ただただ〝怖い〟音楽が生まれる。

クラシックからは離れるが私見を言わせてもらえば、20世紀後半、レッド・ツェッペリンやディープ・パープルがそれまでとスタイルを変えた〝怖い〟音楽を作ったと思う。

本書内で話題にされる楽曲は、その気になれば全てネットで聞ける(はず)。
〝その気〟にならなかったけれど(^^;

本夕、読了。

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