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2015年7月19日 (日)

廃駅跡にて

羊蹄山に4つある登頂ルートのひとつの喜茂別コースは、登山口が喜茂別町留産地区にあり、廃線となった胆振線の留産(るさん)駅が近かった。
年配の登山者と話す時は、喜茂別コースと呼ぶよりも、むしろ留産コースと呼ぶほうが通りがいいくらい。

以下、ネットで拾える話の羅列だが、私の備忘として。

胆振線のそもそもは、脇方(京極町)で得られる鉄鉱石を室蘭に運ぶことが目的。
その目的のために、京極-倶知安間が敷設され、既設の函館本線とつながった。
倶知安から札幌・岩見沢・苫小牧と経由して室蘭に至る、鉄鉱石輸送鉄路ルートができたわけだ。
’19(大正8)年のこと。

のち、京極から室蘭本線につながる伊達紋別間に鉄路が敷設され、道央に大ループ線が完成している。
大ループの完成は’26(大正15)年。

留産地区の開墾のために人が入ったのは、1895(明治28)年頃。
留産地区を通過して走る倶知安-喜茂別道が’07(明治40)年には開通したから、以降、開墾のピッチは上がったものと思われるが、何と言っても豪雪地帯。
冬、この地区へのアクセスは難しかっただろう。

胆振線の歴史のスタートが産業輸送線。
だが、倶知安に至る鉄路の通過線上という地の利があって、留産駅開業は’28(昭和3)年と早い。
胆振線の廃線、つまり留産駅が閉じたのは’86(昭和61)年。
60年ほどの歴史だったということになる。

Photo_2【画像:上】
留産駅跡へ。

この画像正面に留産駅があったのだが、駅舎もホームの痕跡もない。
軌道床は畑と化していて、鉄道が通っていたことを示すような遺構は何も残っていない。

〝軌道床は畑と化して〟と書いたが、廃線後の土地を国鉄が農家に払い下げている。
実際の経緯は、以下のようなことだったのではと推察。

元々畑だったところを、鉄道敷設のために国が農家から土地を買い上げ。
あるいは、土地の供出と停車場建設をバーターしたか。

60年たって、畑が畑に戻っただけのことなのでは・・・

画像奥は、尻別川。
手前の花は、ジャガイモ。
花弁が白い。
キタアカリ。

【画像:下】
農業とは従事者を増やしにくい産業で、農家を継げるのは長男のみ。
他の者は、出てゆかねばならない。
都会に働きに出るため、ここから汽車に乗った者もいるだろう。
入営のため、ここから汽車に乗った者もいるだろう。
嫁ぐため、ここから汽車に乗った者もいるだろう。
留産からは、どれくらい者が出て行ったのだろう。

駅に休業日はない。
留産駅の無人駅化は’72(昭和62)年。
それまで、この付近には国鉄官舎があり、駅が毎日活動していた。
365日、この駅から乗り、この駅で降りた者たちがいた。

ここから都会に働きに出た者、入営のために出た者、嫁ぎに出た者たちがいた。

タイトルを『廃駅跡にて』とした。
しかし、留産には〝跡〟さえない・・・

クモの巣に雨粒。
あの日と同じ雨だ・・・

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